よく昔の人はあの人は業が深いなぞと言う表現をされていました。

カルマとはなんでしょう、その意味の捉え方を云々すると学者先生がたの出番になって、小難しくなりさっぱり分からなくなります。

私達 正法の実践を目指す者には理論に振り回されている時間はありません。それは観念の遊びといっても過言では無いと思います。


信次先生は循環の法則だと言われました。一つの原因を作るとその結果が出現しそれが今度は原因となってつぎの結果を生み出す。ぐるぐると廻ってなかなかその輪の中から抜け出せなくなる。

カルマは転生の過程において作り出したもの(先天性)と肉体をもっての今生において身につけてしまったカルマと2種類がありますが。いずれにしてもカルマの修正は容易なことではありません。

反省してこれは間違いであり自分の欠点でこのような原因に触れるとつい駄目だと思っていてもどうしようもなく思いが湧き出し行為していまう。

あの偉大なるイエス様でもその個性といおうか、やさしく愛の塊の方が和尚さんから聞いたイエス様の気性は非常に激しい方であった。


「バカ アナタ ナニ シテルカー」


と言われ叱られたこともあります。

と和尚さんは話されていました。でも同時にイエス様は愛の塊のような方で、信次先生がお体を悪くされて立ち上がることも出来ないような状態になられた時。

殆どそのころGLAに行かなかった和尚さんが信次先生の住んでおられた八起ビルへ(信次先生は容態が悪くなったとき大森の自宅から八起ビルに家族と別れて住まいを移された)お伺いしたら、信次先生は顔色が悪くやつれてソファーに座っておられ。


「お坊さん私に光をいれてくれませんか」


と言われたので


「私のようなもので宜しいのですか」


「お願いします」


そこでまず光を入れる前にイエス様の来迎をお願いして3時間ほど光をいれた。


この話は直接お話を聞きましたし。 調和への道 にも書かれています。


話が脱線しましたが。要はイエス様のような方でもカルマがあるということです。

イエス様の件で信次先生が話されたことで12使徒の1人ペテロの話。


「イエス様の弟子ペテロは漁師あがりで学問もなく伝道にあたり非常に苦労した、だから今度生まれてくるときは学問をしっかりやろうと思い出てきて本当に学問に勤しみ東大の学長にまでなった。

しかしここでもカルマによりキリスト教に帰依して自分の心からでる思いを本にして現した。その本は 角川選書 イエス伝 矢内原忠雄 そのものである」 


「この本に書かれているイエス様最後の夜 ゲッセマネの園でのイエス様の祈り、その間従った弟子たちの居眠りイエス様の叱咤、十字架にひかれるときのペテロの虚言、その心の思い。本人でなければ書けません」


と話されておられました。カルマは悪いカルマも良いカルマもあります。生まれる環境を選ぶ両親を選ぶ。職業を選ぶ。多分にカルマの影響を受けています。


例えば。シャリプトラーと言われた園頭さんの場合。インドの当時最初の師はバラモンのアサンジャーでその後ブッタの弟子になられました。

今生 園頭(シャリプトラーが過去世と言われていますが私はお会いしたことも無く真偽のほどは分かりませんが)さんが関わった生長の家の講師をおやりになった。この初代  総裁 谷口雅春 さんはインドの時のアサンジャーであったと和尚さんから聞いてます。

その教義に疑問をもち信次先生に帰依された。

同じパターンですね。これもカルマの一種でしょうか。


知らない間に同じことを繰り返してしまう。いけないことだと分かっていてもやってしまう。

カルマの修正は簡単にはいきません。反省を通じて何度でも挑戦しちょっとずつでも諦めずに自分を変えて行く粘り強い意思が必要だと思います。

誰かに縋って変えて貰うなどはできる筈がありません。何度も同じことを言います頼るのは自分の善なる心のみ。


ちょっと外れますが最近テレビで大学の入学式に保護者が出席する人が増えて大学の講堂では間に合わず大きな会場を借りて2回も3回にも別けて入学式を行い。授業の受け方や勉強の仕方や方向なども保護者が聞いているのをテレビで放映していました。

昔は15才で大人として認められると同時に責任を負わされた。

今 学校を卒業しても親の世話にならないと生活できない人達がいるようです。

いったいいつになったら。自立できるのでしょう。

学問も。仕事でも。宗教でも。先人たちは自ら道を切り開き歩んだものだと思います。

私事で比較になるものではありませんが。仕事において人から殆ど教えられたことはありません。一生懸命求めていくとなぜだか分かってしまうのです。勿論どうしても分からないこともありますヒントを本に求めたりすることはあります。

手取り足取り教えられることは無いと言いたいのです。もしそのようなことがあったとしたら。その内容は誰でも知ってる当たり前のことであまり役には立たないでしょう。


強い意思と自力の努力以外ないということです。 特に正法は信次先生に頼っても誰に頼っても頼るものでは無いということです。