入院して1週間が経過した。携帯電話を持って行っていないので、最初は公衆電話からかけてきていたが、次第にかけにくくなったようでしばらく電話がなかった。土曜日には面会に行く予定になっていて、その時に携帯電話を持って行くことになっていたが、当日朝に電話があったので、その日行くのはキャンセルさせてもらった。傷がまだ痛むのと、しんどくて行けないと言った。妻は来るのが当たり前だと思っているが、あれだけ暴力を振るっていることについては余り何も思っていないようである。家で自傷行為をしていたことが発覚して、注射を打たれたとのことである。不安が強いので、抗精神病薬が処方されるようでおののいていた。自分は統合失調症と診断されるのではないかとの不安もあるようだ。誤診されることはないだろうけれど、抗精神病薬はありうる選択ではある。元々依存性が強いのだから他力本願でやればよいと思うのだが、他人は信用できない。自分も信用できないので不安が強くなるのは仕方がない。携帯電話を持てば、外の世界と繋がり、入院という現実から逃れようとするであろう。いつも安易な道を選んできた。依存症というのはある意味そういう生き方でもあろう。私はほぼ完全に妻にコントロールされてきていた。最近段々と症状がきつくなってきて、コントロールが強くなっていた。妻が入院して初めて気づく感じである。仕事に行くのも何とか制限しようとするようになった。しかし、私が金を稼がないとやってゆけないというのは自覚しているので、何とか思いとどまっていた。でも、仕事が終わったらすぐに帰れとか電話しろとか色々と条件をつけようとした。休みの日に何かスケジュールを入れるのはかなり抵抗された。図書館に行ったりするのも不自由であった。この1週間は重石が取れて虚脱状態であった。しかし、退院後のことを考えると、とてもではないがもう同居するのは難しい気がする。一応離婚はしないと約束しての入院ではあるが、元に戻ればまた私を支配しようとするであろう。そして依存関係が持続するだろう。妻の母親は、妻の入院に関しては無関心といった感じである。頼まれる用事が増えたような気がする。一度母親に、「こんな奴を育てた親の顔が見てみたい」、と言ってみたい気もするのだが、母親は自分はちゃんと育てたと言うであろう。私から見れば、妻の責任半分、母親の責任半分といったところだろうか。と書けば私の責任が抜けているようにも思う。そもそも、私は妻と結婚するまでは精神科医になろうなどとは思ってもみなかった。一般科の医者からすれば、精神科医というのは医者とは思えなかった。体を診れない医者、薬を出すカウンセラーと言ったイメージであった。もっとも精神科医になってみたら、カウンセラー程の実力はないことに気が付いた。結婚してしばらくしたら、一緒に生活するのがとても大変なことに気が付いた。私はそれまでずっと自炊生活をしていたので、家事は大体こなせていたし、料理は明らかに妻よりはうまかった。そして妻は大学院に行っていて忙しかったので私が料理を作ることが多かったがなぜかいつも非難されていた。刺身が2回続いた時はすごく文句を言われたりした。また夜中まで話し合いというか、絡まれることもよくあった。自分的には90点くらいの出来ではないかと思っていたが、いつもその足りない10点を責められていた。一緒に生活するのがしんどかったので、カウンセリングの勉強をしに行った。しかしそれは妻の攻撃の前には無力であった。ただ、私に問題があるというよりは、妻は怒りたいから怒っているのだということが分かった。仕事の上での行き詰まりと、アマチュアでは妻の相手はできないという思いもあり、まさかまさかの精神科に転科することにした。大学で研修させてくれるのかと思っていたら、いきなり第一線の病院に放り出された。医者関係の求人に、精神科だけは経験不問と書いてあるのがほとんどである。要は見様見真似でやれということである。これは一つには私の出身大学の精神科は余り臨床に熱心でなかったということもあったようである。一般科から見ると精神科は人権意識がとても高いだろうとびびりながら行ったのだが、人権意識がほとんどないような悪徳病院だったのでびっくりした。結局そこは1年間もおらず退職した。大学の医局経由で入っていたので、大学に文句を言いに行ったら、次は人格者の院長の病院を紹介してくれた。結局そこに17年間居て、その後クリニックに勤務することになった。