俺が思春期以前から随分長く思っていたことの正体は、次の様なものかもしれない。「(大抵の男よ、)俺よりでかい図体してんだから、ちゃんとせえや。BIGなことやって下さいよ―BIGなハートで。なのにダセーヨエーチィセーアホ/クソヤロウだよ、クズ共が。俺を安心させてくれよ、守ってくれよ。」あと、190とか2mのやつには基本首取っても足関節で行ってもかなわんから、治安・法律を俺の提案みたいに超厳罰化してくれよ、というのもある。その反面で「俺は勝つ!」と学校・地域・部活・勉強などで反抗心剥き出しで張り合って生きてきた。あと、虐待ホットライン、民生委員の番号、それが載ってるパンフ、何で学校で配ってくれんかってん。

日本がアメリカの属国だとしたら、日本の大衆―恐ろしいことに何を自惚れているのか個性や能力も無視して一人一票を当然と思っとる―はTV局の属「国民」やな。うまくオダテラレテ、ノセラレテ、ダマサレトル。こんな奴らはまとめて5票でいいのに、これが選挙民の、総票数の99%を占めているのだから、二重の意味でこの国の命運は知れている。週刊誌、タブロイド紙、書籍、メルマガ等のミニ・コミを読める一部の読書エリート階層にしか選挙権は与えたらあかん。そこにしか本当の意味での意見の対立、多様性、知性、なにより真相は浮かび上がってこない。固定した階層でも金持ちでもない努力による新規参入が激しい流動的な階層だから、これで行くべきだ。国民の20%葉選挙民になれるかもしれない。ただ、一部の日本派(私も日本派だが)のように、この国は大衆が賢いという悲しい白昼夢は俺は経験上、信じない。お受験の偏差値で行けば、最低高校の代ゼミ模試で偏差値65以上のやつらで30%いればいい方だ。そして実際は、この日本派が言う「大衆」とは偏差値75位の一握りの人間のことでしかない。現実はそうだ。

俺は今の能力―世界政治家偏差値80、他の日本人は39か良くて45ぐらい―で来世政治家になっても、頭を下げて仕事はしない。義理人情礼儀(俺なりの)は忘れないが。一流の職人がそうであるように。「自分で自分を救う最高のチャンスなんだ。ふさわしいと思うリーダーに票を入れろ」せいぜい「入れよう」かな。「入れましょう」か?卑屈な感じが・・「自分を救うとは、国(国会議員、最高裁判所長官、官僚など)→社会計画→経済・雇用→地域→犯罪、といった風に国会議員が機能しているからで、この中の良い奴を選べば自分が救われる、ということだ。最高裁判所長官や地方裁判所や官僚も国会議員の力で良くすることが出来る。」といったポスター/たすき/のぼりなどをできれば作り、最低演説する。

達した今の僕のテーマソングはff(フォルテシモbyハウンド・ドッグ)です。記事「同情」「愛の才能」参照。