映画『有楽町で逢いましょう』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2019年3月19日(火)角川シネマ有楽町(東京都千代田区有楽町1-11-1 読売会館8F、JR有楽町駅・国際フォーラム口前ビックカメラ上)で、15:30~ 鑑賞。

「有楽町で逢いましょう」

作品データ
英題 Chance Meeting
製作年 1958年
製作国 日本
上映時間 97分

初公開 1958年1月15日

映画『有楽町で逢いましょう』

1957年に開店した「有楽町そごう」(現在は「角川シネマ有楽町」が入っている読売会館)のキャンペーンソングとして作られた、ムード歌謡歌手・フランク永井の同名ヒット曲が主題歌の恋愛映画。東京と大阪を舞台に、2組の男女による恋愛模様が展開する。芸能雑誌『平凡』連載の宮崎博史の同名小説を『サザエさんの青春』の笠原良三が脚色し、『九時間の恐怖』の島耕二がメガホンを取る。主演は『穴』の京マチ子/菅原謙二、『地上』の川口浩/野添ひとみの各コンビ。ほかに小野道子、浪花 千栄子、北林谷栄、叶順子、北原義郎、山茶花究などが助演している。色彩は「大映カラー・総天然色」。

ストーリー
フランス帰りの新進デザイナー小柳亜矢(京マチ子)は、パリ仕込みの奇抜なデザインで大阪の女性をあっと言わせた。意気揚々、彼女はその夜の列車で東京に向かった。偶然隣りに乗り合わせたスポーツで鍛えあげた逞しい体の建築技師・篠原練太郎(菅原謙二)の足を踏んだのも気がつかない興奮の仕方であった。それでも練太郎が、亜矢が花形デザイナーとして紹介されている週刊誌を事もなげに丸め、駅弁にパクつくのを見て、柳眉を逆立てるのだった。
数日後、亜矢の店に、彼女が日ごろ可愛がっている女子短大生・篠原加奈(野添ひとみ)が訪れた。亜矢の入念なデザインの服を兄に散々酷評されたので仕立直してほしいというのだ。亜矢は不在で、ちょうど居合わせた亜矢の弟、大学のフットボール選手の武志(川口浩)は「どれでも好きなのを持って行けよ」と加奈に言って、二人はすっかり仲好くなってしまう。ところが、これを知った亜矢はカンカンになり、加奈の兄のところに押しかけたが、意外にも兄とは篠原練太郎のことだった。“勝気”と“朴念仁”とのトンチンカンな論争をよそに、加奈と武志は仲良く語り合っていた。
ある日、補欠の武志の奇蹟的プレーで逆転勝ちとなった試合の帰り、武志は加奈の寮の窓によじ登って彼女と熱い口づけを交わした。しかし、これが舎監に見つかり、またまた亜矢と練太郎の“大論争”を引き起こした。加奈と武志はどんどん仲良くなり、結婚を考えるようになる。しかし、両親に先立たれてから弟を自分の稼ぎで大学に通わせている亜矢にとって、そんな話は問題外。亜矢に加奈との結婚を反対された武志は、大阪の乳母よね(浪花千栄子)のもとへ行こうと有楽町で加奈と合うこととなったが行き違う。何も語れないまま加奈を東京に残して独り大阪に旅立つ。
その日、百貨店「そごう」では亜矢のファッション・ショーが開かれていたが、散々な悪評に終わった。ショーの失敗、弟の家出、人生の壁にぶち当たってしょんぼりした亜矢に、練太郎はどこか惹かれるものを感じてきた。仕事のため大阪へ来た練太郎、それを追うようにこれも大阪にやって来た亜矢。二人は加奈と武志の結婚を許し、さて、自分たちについては、当分有楽町の女神の前で逢うしかない、と語り合うのだった―。

私感
私は本作を、3月19日当日、「京マチ子映画祭」で鑑賞した。
同映画祭~大女優・京マチ子のデビュー「70周年」を記念し、代表作32本を一挙に上映~は、本年2月23日から3月21日まで、東京・角川シネマ有楽町で開催された。
私がこの映画祭の情報を知ったのは3月18日のこと。〈シマッタ!あの京マチ子の映画がたくさん上映されるというのに、遅きに失した!〉
私は慌てて、「映画祭」上映スケジュールと当方の都合を適当に按配(あんばい)して、残り少ない作品から何とか本作『有楽町で逢いましょう』を選択し鑑賞した次第。

本作は無性に懐かしく忘れがたい作品である。
本作が初公開されたのが1958年1月15日。公開直後かどうかは全く記憶にないが、恐らく同年の1月か2月に、私は本作を観たのではないか。はっきりしている点は、少年時代の私が大学生の姉Masakoと連れ立って北海道の田舎の映画館で鑑賞したこと。その後、1980年代に入って、たしかVHSで2回ばかり観たように思うが、映画館では今回が何と約60年ぶり2度目の鑑賞となった。
初鑑賞時の私は、率直な感想を日記に記している。「今日の映画、面白かった!京マチ子も菅原謙二も川口浩も野添ひとみも、みんなよかった。…野添ひとみは初々しく可愛い!京マチ子は色っぽく迫力があり何か目立つ!…それより何より、フランク永井の歌が素晴らしかった!胸のときめきを感じた。うれしいような、切ないような…」

実は、私はこの映画がきっかけとなったのか、1958~60年頃から次第に学生時代→社会人時代を通して、京マチ子という、どこか色っぽく大人びた、芯の太い女優に特別な関心を向けてきた。
1958年以前にも、映画少年の私は彼女の出演作を何作か観ていた。例えば、『新平家物語 義仲をめぐる三人の女』(衣笠貞之助監督、1956年)、『夜の蝶』(吉村公三郎監督、1957年)などだ。そこでは別段~これはわが心身の成熟度合いに関わる問題なのか~、彼女は私の印象に色濃く残るような俳優ではなかった[『新平家物語 義仲をめぐる三人の女』については、主演(「木曽義仲」役)の長谷川一夫だけは今も私の記憶にしっかりと刻み込まれている!]
しかし、やがて私は、銀幕のヒロイン・京マチ子こそ、様々な女性の人生や業を演じてきた、本格的な存在感のある、日本一の演技派“美人”女優であると思いつづけ、今日にいたっている。

京マチ子(1924~)は1949年、25歳の時に大映に入社し、本格デビュー。翌年、『羅生門』(黒澤明監督)に出演、戦後だからこそ表現できる新たな女性像(「真砂」役)を、ダンスで鍛えた体で見事に体現。同作がベネチア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞(グランプリ)、アカデミー賞名誉賞(最優秀外国語映画賞)を受賞し、国際的にもその名が知られるようになる。さらに53年に主演した『雨月物語』(溝口健二監督)がベネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞(※金獅子賞が該当なしのため、事実上のグランプリ)を、同年の『地獄門』(衣笠貞之助監督)がカンヌ国際映画祭グランプリ(最高賞)を立て続けに受賞したことから、“グランプリ女優”と呼ばれるようになり、国際女優としての地位を決定づけた。

私は60年代の初めに、まず手始めに同上3作を何度か鑑賞。この記念すべき名作を堪能後、1960年代から2000年代にかけて、彼女の出演作(1960年代以前の作品を含む)を手当たり次第に~映画館で、VHS/DVDで~観づけた。記憶がぼやけて思い出せない作品も少なくないが、今も消えがたく京マチ子という名を記憶にとどめる作品は―
『痴人の愛』(木村恵吾監督、1949年)
『源氏物語』(吉村公三郎監督、1951年)
『愛染かつら』(木村恵吾監督、1954年)
『千姫』(木村恵吾監督、1954年)
『赤線地帯』(溝口健二監督、1956年)
『八月十五夜の茶屋』[原題:The Teahouse of the August Moon、製作国:アメリカ、監督:ダニエル・マン、共演:マーロン・ブランド(Marlon Brando)、グレン・フォード(Glenn Ford)、エディ・アルバート(Eddie Albert)、1956年]
『忠臣蔵』(渡辺邦男監督、1958年)
『赤線の灯は消えず』(田中重雄監督、1958年)
『細雪』(島耕二監督、1959年)
『鍵』(市川崑監督、1959年)
『浮草』(小津安二郎監督、1959年)
『流転の王妃』(田中絹代監督、1960年)
『釈迦』(三隅研次監督、1961年)
『黒蜥蜴』(井上梅次監督、1962年)
『女の一生』(増村保造監督、1962年)
『女系家族』(三隅研次監督、1963年)
『他人の顔』(勅使河原宏監督、1966年)
『千羽鶴』(増村保造監督、1969年)
『華麗なる一族』(山本薩夫監督、1974年)
『金環蝕』(山本薩夫監督、1975年)
『妖婆』(今井正監督、1976年)
『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』(山田洋次監督、1976年)

今にして思えば、1958年の時点で、本作『有楽町で逢いましょう』を介して、私は実質的に初めて京マチ子に出会ったと言えよう。

宝石赤京マチ子映画祭」予告編 :


本作が私にとって極めて思い出深いのは、京マチ子のことに加えて、さらに本作のテーマソング「有楽町で逢いましょう」によっている。それは、1957年5月25日に開店した「有楽町そごう」(正式名称は「そごう東京店」)のキャンペーンソングとして同年11月に発表された、独特の都会的ムードをもった歌謡曲<作詞:佐伯孝夫/作曲:吉田正/歌唱:フランク永井>だった。

(1)
あなたを待てば 雨が降る
濡れて来ぬかと 気にかかる
ああ ビルのほとりの ティー・ルーム
雨も愛(いと)しや 唄ってる
甘いブルース 
あなたと私の合言葉
「有楽町で逢いましょう」

(2)
心に沁みる 雨の唄
駅のホームも 濡れたろう
ああ 小窓にけむる デパートよ
今日の映画(シネマ)は ロードショウ
かわす囁(ささや)き 
あなたと私の合言葉
「有楽町で逢いましょう」

(3)
悲しい宵は 悲しいよに
燃えるやさしい 街灯り
ああ 命をかけた 恋の花
咲いておくれよ いつまでも
いついつ迄も 
あなたと私の合言葉
「有楽町で逢いましょう」


フランク永井(1932~2008)は宮城県出身。歌手を目指して上京、米軍キャンプのクラブ歌手をへて55年、ビクターの専属歌手となる。初期こそジャズを歌っていたが作曲家・吉田正の勧めで歌謡曲に転じ、ささやくような甘い低音で歌った「有楽町で逢いましょう」が発売から半年で約50万枚を売り上げる空前の大ヒットとなり、一躍スターダムにのし上がった。
その後、「魅惑の低音」と称された独自の豊かな低音を武器に、師である作曲家の吉田正とともに都会的でジャズテイスト溢れるムード歌謡のジャンルを切り開き、何とも魅力的な数多くのヒット作・話題作を世に送り出し、歌謡界には比較的珍しい非・演歌系の大御所歌手として存在感を示しつづけた。

私の両親JiroとMisaoは共に、フランク永井のヒット曲・代表曲のほとんどが好きだった。特に「有楽町で逢いましょう」、「こいさんのラブ・コール」「東京ナイト・クラブ」「君恋し」「おまえに」を愛好・愛唱し、Misaoにいたっては、それらを誰にともなく、しきりに小声で口ずさむほどだった。
私自身はもともと日本の流行歌・歌謡曲には大して興味がない質(たち)だ。少なくとも少年時代の私は、その種の歌に興醒めする体験を幾度も重ねていた。
ところが、本作に初めて接した時、私はのっけから予想外の場面に出くわし、私の歌謡曲に対する生来の姿勢の修正を余儀なくされる。
フランク永井自ら登場して主題歌の「有楽町で逢いましょう」を歌う冒頭シーン。画面上のこととはいえ、私は一瞬、今一番旬な芸能人が“生歌”を披露する舞台を見ているかのような感覚に襲われた。オープニングと同時に現役歌手が登場し主題歌を披露することに意表を突かれた私だが、その歌に聞き入るほどに知らず知らず哀調を帯びた美声に釣り込まれていくのだった…。スローバラードのゆったりしたテンポ!バリトンボイスの魅力!声自体が甘くソフトで切なく惚れ惚れするほど美しい!

この「有楽町で逢いましょう」と出会って以来、私はフランク永井の一ファンになるとともに、歌謡曲・流行歌自体に、時代の偏見に囚われることなく正対し、それらから自らの持ち歌を選ぶ機会に恵まれるようになった。

フランク永井は2008年10月27日、肺炎のため死去(享年76歳)。彼は1985年10月21日に自殺を図り一命を取り留めたが、後遺症から療養に専念していた…。
私の場合、この数十年間変わらず、日本の“歌謡曲”と言えば、即刻何の躊躇(ためら)いもなく、いの一番に念頭に浮かべるのが、日本のムード歌謡の第一人者・フランク永井が歌う「有楽町で逢いましょう」にほかならなかった。

He is one of my favorite singer. His music accompanied me through my juvenile age. He attempted suicide and finished his life in a sad way. But the voice should stay long with me.

宝石ブルー 音譜 主題歌・挿入歌「有楽町で逢いましょう」
[本作冒頭で、フランク永井(1932~2008)は自ら出演してテーマソング「有楽町で逢いましょう」を歌唱。また、同曲は劇中で挿入歌としても使用されている(彼の映像はなく、声だけ)。]