作品データ :
原題 Der junge Karl Marx(独)、Le jeune Karl Marx(仏)、The Young Karl Marx(英)
製作年 2017年
製作国 フランス/ドイツ/ベルギー
配給 ハーク
上映時間 118分


[本作のタイトルは、欧米では(独語・仏語・英語すべて)マルクス一人に絞られているが、日本ではマルクスとエンゲルスの二人を対象とする。従来往々にして、この国ではセンスのない~原題の持ち味を壊した~邦題が多々見受けられるが、本作については「マルクス・エンゲルス」の題名がその物語内容にふさわしいものである。ただし、蛇足を加えれば、(21世紀に入って)現代日本人の圧倒的多数は、“マルクス・エンゲルス”の名前を耳にすれば、まずは、得体の知れない、ある一人の特定の人物を思い描きはしても、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスという二人の歴史的傑物に思い当たりはしないだろう―。]
ドイツの思想家カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの若き日々を綴る伝記映画・歴史映画。ドイツ、フランス、イギリス、ベルギーを舞台に、マルクスとエンゲルスの二人が「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という有名な言葉で始まる『共産党宣言』(1848年)を執筆するまでの日々をドラマティックに描く。主演は『青い棘』のアウグスト・ディール、共演にシュテファン・コナルスケ、ヴィッキー・クリープス、ハンナ・スティール。監督は『ルムンバの叫び』(2000年)、『私はあなたのニグロではない』(2016年)で知られる、ハイチ出身のラウル・ペック。
≪今、世界が一連の未曾有の経済危機を経験する中で、カール・マルクスに再び注目が集まり、予想外の関心が高まっている。ここ数年、世界の有力誌―『TIME』『ニューズウィーク』『Forbes』『フィナンシャル・タイムズ』はもとより『Der Spiegel』までも―の表紙にマルクスが登場している。遡って1999年のBBC世論調査では、マルクスが20世紀のもっとも偉大な思想家として、2位のアルバート・アインシュタインを抑えて首位にランクされている。2014年には、フランスの経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』が45万部を売り上げ、カール・マルクスの理論が大いに脚光を浴びることとなった。/これらのジャーナリストや経済学者たちは判断を間違っていない。ベルリンの壁崩壊25周年を祝ったばかりの今だからこそ、原点に立ち戻ることができるのだ。カール・マルクスの科学的論文の本質とは何であっただろうか。彼の思想から生まれた教理が世界にもたらしたこと、20世紀的世界秩序の崩壊に対して、責任や罪悪感を抱くことなく考える時が来たのだ。30歳を迎えるよりも前に、マルクスとエンゲルスは世界を変え始めていた。この映画が描きたかったもの、それは、若さと、思想の革命である。≫
ストーリー :
1840年代のヨーロッパでは、産業革命が生んだ社会の歪(ひず)みが格差をもたらし、貧困の嵐が吹き荒れ、人々は人間の尊厳を奪われて、不当な労働を強いられていた。20代半ばのカール・マルクス(アウグスト・ディール)は、搾取と不平等な世界に対抗すべく独自に政治批判を展開するが、それによってドイツを追われ、フランスへと辿りつく。パリで再会した若きフリードリヒ・エンゲルス(シュテファン・コナルスケ)は、マンチェスターの紡績工場のオーナーの子息で、イギリスのプロレタリアート(労働者階級)について研究していた。エンゲルスの経済論に啓発されたマルクスは、彼と深い友情をはぐくんでいく。激しく揺れ動く時代、資本家と労働者の対立が拡大し、人々に革命的理論が待望されるなか、二人はかけがえのない同志である妻たちと共に、時代を超えて読み継がれていく『共産党宣言』の執筆に打ち込んでいく―。
▼予告編

≪1818年5月5日プロイセン、トリーア生まれ。ユダヤ人家庭で育つ。1835年にボン大学に入学。1836年夏、貴族の娘であるイェニー・フォン・ヴェストファーレンと婚約、10月にはベルリン大学へ転学する。1837年、病気療養のため滞在したシュトラローで、青年ヘーゲル派が集っていた「ドクトル・クラブ」に加入し、ブルーノ・バウアーらと親交を結ぶ。1841年にイエナ大学に『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異』を提出し、哲学博士号を取得。その後、教授職を探すものの断念し、『ライン新聞』のジャーナリスト、編集者となる。1843年、言論弾圧の中で『ライン新聞』が廃刊となると、アーノルト・ルーゲらとともに共同編集者として『独仏年誌』刊行に携わる。同年、イェニーとクロイツナハにて結婚し、パリに移住。1844年にブルーノ・バウアーを批判した「ユダヤ人問題によせて」、「ヘーゲル法哲学批判序説」を『独仏年誌』に掲載する。また、『独仏年誌』に掲載されたエンゲルスの「国民経済学批判大綱」に感銘を受け、10日間にも及ぶ自宅での話し合いを経て、意気投合。バウアー一派を批判した『聖家族』(1845)を共同執筆し、終生の友人となる。1845年、フランス政府による追放を受けて、ブリュッセルに移住。エンゲルスらとともに青年ヘーゲル派やカール・グリューンらの真正社会主義を批判した草稿『ドイツ・イデオロギー』の出版を目指すも断念。1847年、プルードンを批判した『哲学の貧困』を出版。1848年には共産主義者同盟の綱領として『共産党宣言』をエンゲルスと共同執筆する。その後、ヨーロッパ各地で発生した革命の動乱の中、パリを経て終生の地となるロンドンへと移住し、経済学研究を再開。1867年、主著『資本論』第一巻を刊行。存命中に全三巻の刊行には至らなかったものの、死後、エンゲルスの尽力により編集、刊行された。1883年3月14日死去(享年64歳)。≫
≪1820年11月28日、紡績工場を営む父の下、プロイセンのバルメン(現:ヴッパータール)に生まれる。1837年、ギムナジウム(日本における高等学校の位置づけ)を中退し、父の仕事を手伝う。1841年、兵役義務のため、ベルリン近衛砲兵旅団に入隊し、その合間にベルリン大学で聴講し、青年ヘーゲル派と交わる。1842年、父が共同経営するエルメン・アンド・エンゲルス商会の紡績工場で働くために、マンチェスターに行き、仕事の傍ら、労働者階級の状態を調査する。この調査は後に『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)として出版されることになる。また1843年には、この調査の中で出会ったアイルランド出身の労働者メアリー・バーンズと共同生活を始める。1844年には『独仏年誌』に、「国民経済学批判大綱」を掲載。経済学の知識が乏しかった当時のマルクスに大きな感銘を与えるとともに、エンゲルスも『独仏年誌』に掲載されたマルクスの論文に感銘を受け、互いに意気投合する。『聖家族』を共同執筆後は、一時バルメンに戻り、商会の仕事に従事するも1845年、マルクスのパリ追放と同時にブリュッセルに移住。ヨーロッパ各地における共産主義運動の結集を目指し、各地で活動を展開し、正義者同盟を共産主義者同盟に発展させた。1848年、マルクスと共に共産主義者同盟の綱領として『共産党宣言』を著す。革命後は、マンチェスターにおいて商会の仕事に従事し、マルクス一家への金銭的援助も行い、一方で仕事の傍ら、政治経済の分析を行うという二重生活を送る。マルクスの死後は遺稿を基に、マルクスの悪筆に苦しみ、目を悪くしながらも、『資本論』第二、三巻を編集、出版するとともに、国際労働運動に対する助言を行った。その他の著作として『自然弁証法論』(1873-1876)、『反デューリング論』(1878)、『空想より科学へ』(1880)、『家族・私有財産・国家の起源』(1884)。1895年8月5日喉頭がんで死去(享年74歳)。≫(前出・オフィシャルサイト|PROFILE)