映画『青銅の基督』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2018年3月27日(火)新文芸坐(東京都豊島区東池袋1-43-5 マルハン池袋ビル3F、JR池袋駅東口下車徒歩3分)で、18:15~ 鑑賞。『東京物語』15:35~と2本立て上映。



作品データ
製作年 1955年
製作国 日本
配給 松竹
上映時間 125分


長与善郎の小説『青銅の基督』(改造社、1923年)を『現代人』(1952年)の渋谷実監督が映画化した、江戸時代の長崎を舞台としたキリシタン殉教悲劇。幕府のキリシタン弾圧が激しさを増すなか、踏絵代わりのキリスト像を作らされる若い鋳物師とキリシタンの娘との恋や、幕府の政策に協力する転びバテレンの姿を中心に描く。出演者は『また逢う日まで』(1950年)の岡田英次、『黒い潮』(1954年)の滝沢修、『山椒大夫』(1954年)の香川京子、『女ひとり大地を行く』(1953年)の山田五十鈴、『伊豆の踊子』(1954年)の石浜朗、『うず潮』(1952年)の野添ひとみ。

ストーリー
徳川幕府がキリシタン(カトリック教信徒)の根絶に躍起となっていた頃、長崎の奉行所で南蛮バテレンのキリシトファ・フェレラ(滝沢修)は、拷問の苦しみに堪えかね、幕府の政策に協力することを誓った。若い南蛮鋳物師・萩原裕佐(岡田英次)は、キリシタンの娘モニカ(香川京子)を愛しているが、モニカの父・多門(藤田多門)は、裕佐がキリシタンでないので、結婚を許さなかった。フェレラの密告で多門が捕らえられ、悲惨な最期を遂げる。
ある日、フェレラは下役人・岩吉(三井弘次)からキリシタン根絶に妙案はないかと訊かれ、踏絵の代わりに鋳物のキリスト像を用いることを進言する。奉行所の手先となった絵師・孫四郎(信欣三)が、商家の若旦那に頼まれたと偽って、裕佐にこの仕事を引き受けさせた。裕佐はモニカへの愛のため、見事な青銅のキリスト像を仕上げたが、フェレラの提案で踏絵代わりに使われると知って激怒し、モニカの弟・吉三郎(石浜朗)にフェレラこそ憎むべき裏切り者だと告げる。裏切り者を殺そうといきり立つ吉三郎を押し止めたモニカは、和蘭屋敷にフェレラを訪ね、彼の良心に訴えて翻心させようとするが、フェレラは聞かなかった。フェレラが何者かに狙撃されたのは、それから間もなくのことである。
聖夜、儀右衛門(伊達信)の家に集まった信徒たちは、まだ傷の癒えぬフェレラの案内で乗り込んだ役人に捕らえられる。処刑の日、彼らは裕佐の精魂こめて作ったキリストの前に跪いて礼拝した。それを見た奉行は、最後まで信徒でないと言い張る裕佐を、背後から突き刺した。十字架にかけられた信徒たちの口から讃美歌が唱えられる。その下に這い寄った瀕死の裕佐は、初めてモニカの愛の言葉を聞いた。地獄絵さながらの光景を前に「いつの世にもユダはいる」と呟くように言ったのはフェレラであった―。

私感
初めて観たこの映画、予想外に私の興味と関心を引きつける印象深い映画だった。
本作は同じ「キリシタン殉教」問題を扱ったマーティン・スコセッシ監督作『沈黙ーサイレンスー』 本ブログ〈April 19, 2017〉 を連想させる。宗教的な含蓄はともかく、物語自体としては本作の方が『沈黙』より面白い。
一途なキリスト教信仰に殉じるモニカ(香川京子)、屈折した恋に殉じる遊女・君香(山田五十鈴)、現世の瞬時の幸福をひたむきに追い求める鋳物師・裕佐(岡田英次)、転びバテレンとして役人と通じる中途半端なエセ神父フェレラ(滝沢修)。それぞれに時代の傷を背負う個性的な人物たちによる人間的な絡み合いが、興趣に富む一編の悲劇的な物語を紡ぎ出す。
そもそも本作の原作-白樺派の作家・長與善郎(1888~1961)の小説『青銅の基督』(1923年)と、同上『沈黙』の原作-カトリック教作家の遠藤周作(1923~96)の代表作『沈黙』(1966年)では、思想的な構えの取り方~どこに問題の焦点を絞り、何をテーマに据えているか~が、どう根本的に違うのだろうか。
少なくとも世間一般の「俗人」たる私の場合、 “神と信仰”の意義を正面切ってテーマ化した遠藤周作の思想的姿勢よりも、“年若い鋳物師が役人の要請で踏絵用に余りに気高い青銅製のキリスト像を造るが、その遊里に親しむような若者にそれほどの傑作を生ませたものは何か”を問題化した長與善郎の思想的姿勢に、一層新鮮な知的好奇心が駆り立てられる―。

ガーン 本作ラストの公開処刑シーン :

聖夜、キリシタンたちはフェレラの密通により役人に捕らえられる。しかし、信仰の堅固な信者たちは、踏み絵を拒み、青銅のキリスト像に額ずいて磔(はりつけ)に処せられる。その公開処刑シーンは、瀬戸市の粘土採掘場である陣屋鉱山で市民エキストラを得て撮影された。…私はこのラストのクライマックス・シーンの、寥々と広がる荒野を思わせるスケール感に圧倒された!