仏教は、原因と結果をしっかりと結びつけて、理解しようとします。
定かではない価値観や宗教的な教えに従う(これも妄想)のではなく、目の前の現実にしっかりと向き合って、最善を尽くすというスタンスがあるからです。
仏教がどのように、人の苦しみとその原因をとらえているかを整理してみます。
煩悩というのは三毒(妄想、貪欲、怒り)のことです。
この煩悩に流された生き方というのは以下のような生き方です。
仕事:
- 自分の評価、成果、収入ばかりを追いかける
- 組織や周囲の人の都合や利益は後回しで、自分の立場を優先する
- 自分の都合に合わない、事柄や人に腹を立てる
人間関係:
- 自分の都合、思惑、わがままをぶつける
- 相手の苦しみよりも、自分の言い分の正しさばかりに意識が向く
- 自分の考えを優先しない家族に腹を立てる
一人の時:
- 怠惰や快楽を追い求める
- 生活の不便さや物足らなさに不満を抱く
- 他の人の成功や楽しんだ話と比べて、今の生活に腹を立てる
多くの人が心当たりがあるでしょう。
私は、以下の本で「このような生き方は苦しみの元」読んだとき、自分のことのように感じ、ジワっとこみ上げるものがありました。
それでは、どう苦しみにつながるかを整理してみましょう。
なぜ、人は上のような生き方をしてしまうかというと、それが幸せになれる方法のように感じてしまうからです。
- 自分が欲しいものを強く求め、最優先すると実現するように感じてしまう
- 誰かに怒りをぶつければ、変わってくれるように感じてしまう。
でも、実際の結果は違います。
以下のような状態になって、苦しみます。
- 望んだ結果が得られない不安や怒り
- 今あるものを失う不安や焦り
- どこか、満たされない不満
- 周囲の人とトラブルが起きる
煩悩に流された生き方には、大きな勘違い(妄想)があるということです。
確かに、求めたものが手に入ったときは気持ち良さがありますが、その多くは手に入りません。
仮に手に入っても、もっともっとと欲しくなってしまいます。
しかも、求めている時は苦しいのです。強く求めれ(貪欲)ば、より苦しみは強くなります。
その求める気持ちは、思い通りにいかない現実に怒りや不満を抱かせるのです。
そして、その怒りや貪欲は新しい苦しい妄想を掻き立てます。
この煩悩たちは、願望実現も邪魔します。
妄想は、願望実現に向かう行動のための時間を奪ったり、誤った方向に導き、怒りは集中を妨げ活力を奪うことで、やはり邪魔するのです
つまり、煩悩に流された生き方は、苦しくて幸せの実現しづらい生き方なのです。
社会は、煩悩を刺激してきます。
- CMやSNSは、私の貪欲を刺激してきます。
- 本やブログが、「こうすれば幸せになる」と訴えて妄想をかきたてます。
(私もその一人かもしれませんが・・・) - TVの報道やコメンテータは、確かな価値観(妄想)を持って、誰かの不備を叩くのが良いと言わんばかりです
今の社会は、誰かを説得して賛同や協力を得ることで、回ている面が多いため人が反応しやすい煩悩を刺激し合います。
そして、自分だけの貪欲を満たそうとする競争が、貪欲を刺激しあい、"わたしが、わたしが"アピール(承認欲求という貪欲)しあいます。
でも、そのような社会を批判(怒り)しても解決しません。煩悩を刺激し合うだけの渦に入っていくことになります。
このような社会で幸せに生きるためには、自分が煩悩の影響を受けているかに注意を払ったり、煩悩から影響を受けないスキルを持つ必要があるということです。
これは、自分の心の見つめ方や調整の仕方ということになります。
そこで、仏教ではサティー(マインドフルネス)を教えたり、鍛錬を積むことになるのです。
