とにかく、今と比べれば、次々と好景気が訪れた時代でした。
太平洋戦争が終結したことを知らせる玉音放送がラジオから流れたのは、1945年8月15日。
太平洋戦争で日本は徹底的に破壊されましたが、
地政学上の利点からアメリカ本土は、第2次世界大戦の影響を最小限に抑えられたことにより、世界で経済的優位に立ちます。
終戦から2年後(1947年)に、アメリカがマーシャルプランを発表。
マーシャルプランとは、民主主義に忠誠を誓ったヨーロッパ諸国に無償または低金利で貸し付け、経済的援助をすることで、共産主義勢力が広がるのを阻止するために提案されました。
終戦から5年後(1950〜1953年)の朝鮮戦争では、日本も含めて軍事産業が盛んになり、好景気が到来しました。
そうした中で、アメリカは経済発展を続け、世界のリーダーとしての地位を確立。
戦後復興の後、日本は、終戦から10年後(1955年)に
「経済自立5カ年計画」を打ち出し、
産業基盤の整備や輸出の振興を推進しました。
日本は敗戦国でしたから、
当然被害を与えた諸外国に、多額の賠償金を支払わなければなりません。
その原資を稼ぐために、アメリカが低金利でお金を貸してくれたのですね。
日本がアメリカに頭があがらないのも頷けます。
そうして、日本人が身を粉にして必死で働き、ついに高度経済成長期(1960〜1970年代)が到来します。
終戦から15年で訪れた高度経済成長期とは、どのような時代だったのでしょうか?
今回は、昭和時代の「飲みニケーション」についてお話しします。
当時の日本社会では、飲酒はビジネスの一環として重要視されていました。
仕事後の飲み会(いわゆる「飲みニケーション」)は、
上司や同僚との関係を築くための重要な場とされていました。
特に高度経済成長期(1960年代から1970年代)では、
企業内外での飲み会が頻繁に行われ、
従業員が遅くまで飲むことが一般的でした。
飲み会での参加が重要視されており、
翌日二日酔いで出社しても、ある程度容認されていました。
社会人になる手前の大学生の間でも、飲み会が重要視され、
身体的にアルコールを受け付けない大学生が、
先輩の指示で無理矢理飲まされ、
救急搬送される事件も発生していました。
重工業や製造業などの工場勤務では、
安全性の観点から飲酒が厳しく管理されていましたが、
一方で、オフィスワークや営業職などでは飲み会の頻度が高く、
若手社員や中堅社員は、上司との飲み会に参加する機会が多かったため、
二日酔いで出社することが多かったことでしょう。
「今では考えれれない」「うらやましい」という声が聞こえてきそうですが…
当時は、今と違って「飲みニケーション」が文化であり、
居酒屋やキャバクラがもう一つの職場だったと考えられます。
行きたくなくても、仕事であれば断るわけにはいきませんよね。
夜遅くまで取引先や上司に付き合い、
肝臓など身体を壊すサラリーマンがたくさん居ました。
高度経済成長期(1960年代から1970年代)に働き盛りということは、
当時30歳だと仮定すると、
その人たちは、1930〜1949年生まれの人たちだということになります。
まさに、戦時中から戦後5年以内の食糧難の子ども時代を生き抜いた人たちです。
そんなたくましい人たちだったからこそ、
高度経済成長期の好景気だけれど、
理不尽だらけの世の中で働いてこられたのだと思います。
昭和の高度成長期は、経済的には良い時代だったかもしれませんが、
振り返ってみると後悔することも多い厳しい時代だったのではないでしょうか。
現代は、急速な技術革新によって、世代間の格差がどんどん広がっていく時代。
そんな時代に、今生きている人たちの「生きてきた歴史」を知ることで、
視野が広がり、誤解が解けていけばいいなと思う今日この頃です。
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