The End of History and the Last Man/Francis Fukuyama

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今回の話は長くなってしまった。


ヘーゲルは歴史の発展法則を弁証法に求めた。これはマルクスの理論にも踏襲されている。
発展「法則」があるということは歴史というものがある道のりを歩むように連続的に発展するということである。
たとえば原始社会から奴隷社会、封建社会といった段階が挙げられる。マルクスはこの最終到達点として共産主義を置いた。

弁証法的に導出された新しい政治形態(ジンテーゼ?)は一つ前の段階よりも高い位置にあるものだと考えられていた。つまり発展段階の上位に行くほど政治形態としては優れたものになるという考えであった。
しかし、20世紀に入って間もないころにその神話は崩れた。2つの世界大戦によって人々はその進歩に対する自信をうしなったのである。

したがって進歩史観は捨てられた。あらゆるものが相対化された。
Francis Fukuyamaの著書 "The End of History and the Last Man"は、ソ連が崩壊した直後に書かれたもので、そのなかで彼はその捨てられた考え方に再び光をあてた。歴史は段階的に進んでいき、その到達点として彼が置いたのは自由民主主義であった。ここが歴史の終着点'the end of history'と主張した。その根拠としてかれは2つの事柄をあげ、一つは経済的理由であり、他方は'recognition'という言葉で表されている。この点についてすこし言及したい。基本的にintroductionのパートからの説明である。(なぜならまだそこしかよんでいない。)

ヒトは衣食住の安定を「欲望」する。自分の外側にあるものに対する欲望である。これを統制するのが「理性」とよばれるものである。しかし人間はそれ以上のものに対する希求心がある。それが「他人から認められたい」という欲望である。プラトンの魂の三部説によれば理性(reason)、欲望(desire)、そしてthymosに分けれており、他人を介在した自身のrecognitionをもとめるのはこのthymosの部分であるという。したがってこれはreasonに属したものではなく必ずしもrationalな希求とはいえない。

自分で思う自分の価値と、自分に対する評価(recognition)にギャップがあるとひとは怒りを覚えたり、恥じらいを感じたりし、一致した場合にはプライドになる。これが歴史を動かすのだ。

端として言えるのは、recognitionの希求とは「モノをモノとして所有するためではなく、それに対する自分の権利を他者に認めさせることであり、それの所有者として他者に自分を認めさせること」である。(『ヴェニスの商人の資本論』 岩井克人 ちくま学芸文庫 p.77)

この議論はジャック=ラカンのいう人間とは全未来的存在である、ということに関係している気がする。つまり人がなにかをもとめるのは今、それがほしいというわけではなく未来の視点に立った時にそれが価値をもつからに他ならないというのだ。

ダイアモンドを売りたいときに一番効果的な言葉はなにか。カラット、カラー、クラリティー、カット、いわゆる4Cを宣伝するのが良いのか、はたまた原産地か。こたえは次の言葉である。「このダイアモンドを身につければ次のパーティーで主役になれますよ。」これは社会的な生き物である人間にとってrecognitionがどんなに大切かを示している。「いま」どうしてこのダイアモンドが必要なのかを説くのでなく、「未来に」「他人に」どのように価値を放つのかを消費者の知らせることで、その消費者はまだ見ぬrecognitionのために高価なダイアモンドを購入するのだ。たしかに誰もみるひとがいなければダイアモンドなんかいらないんじゃないかとおもう。くえたもんでもないし。

とにかく人はこのように他人からのrecognitionをほしがる。それが民主主義への帰結とどう関わるのか。猿山を思い起こせばすこし話が見えてくる。サルたちは死闘を演じ、その中でボスとそれ以外にわかれる。そして主従関係が生まれる。このとき主であるボスはそれ以外のサルたちからrecognitionを得ているといえる。これを人間社会に当てはめたのが奴隷社会である。しかしこの体系はいつか崩壊する。なぜなら自分を認めてくれている相手は自分より劣ったものであるからである。

いくら他人から褒められても同年代の人からは感心されず専らこどもだけから「すごいね!」といわれていたらそれはrecognitionへの欲望を充足しない。そしてどうなるかというと、次の段階として人は平等を求めるのである。ここでthymosは失われている。すなわち自分がどれだけ他人とちがうかでなく、「たにんと同じこと」にたいする欲望がでてくる。

「[欲望の社会化という]この契機は、されに直接に、他者との平等への要求をそのうちに含む。一方で、この平等化への欲望および自己を他者と同一化したいという模倣への欲望が、他方で、それと同時に存在している、自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望が、それ自身欲望を多様化しかつそれを増殖していく事実上の源泉となるのである。」(ヘーゲル『法哲学』)

この同一化への希求が民主主義につながる要因なのだ。すなわち民主主義ではみな平等に諸々の権利を持っている。この点で平等、同一である。しかもここで重要なのは権利をあたえられることによって人はrecognitionとそれに対する欲望との均衡をみるために、thymosの影響をのがれ、社会変動を求めるような「怒り」や「恥じらい」をおぼえなくなる。ここに歴史の到達点としての民主主義が誕生するのである。

フランス革命やアメリカの独立などがその例としてあげられていた。
ここらへんでthe end of this articleとしたいのだけれど、その前に少しニーチェについて触れる。

ニーチェは民主主義が嫌いである。そのことについて少し。
その理由はこのthymosの消滅にあるのではないかと思う。つまりthymosというのは次の段階に自らを高めようという向上心の原動力なのである。怒り、恥じが莫大な労力をあることにささげる力になるのは良く分かる。差別に怒るからフェミニズムは生まれたし、無知を恥じるから僕らは勉強する。

民主主義のなかで欲望を充足してしまうとこれがない。行き着いた到着点だから。ニーチェは素晴らしいドイツ語の表現方法を創りだした、creationを大事にする人だからこれが嫌いなのかもしれない。僕があの人が嫌いなのは向上人が無いからで、あの人が好きなのはそれがあるからなのかもしれない。この点はもうすこし考えてみたい。

しんたろう











経済人類学という学問がある。「宗教と経済」や「神の存在」あるいは、しんたろうが書いた「言い訳」に関するテーマに対して、この学問はなかなか面白い考察をしているので、私なりの解釈も含めて載せたいと思う。


人類は、その歴史を大局的に見ると、約1万年前の農業革命と約250年前の産業革命という2つの大きな革命を経験している。この2つの革命に注目する理由は、生産手段の革命的変化が生産性の向上をもたらし、人口が勢いよく増加するきっかけとなったからである。それぞれの革命により、人類の主な生産手段は狩猟採集から農業へ、農業から工業へと変化した。それぞれの時代を市場や交換の概念を用いて経済学的な分析をすると大変面白いが、話が大幅に逸れるためここでは割愛。


今回のテーマにおいて重要なのは、農業の時代である。農業は当然ながら、収穫までに長いサイクルが必要であり、食糧を確保するためには自分の畑を持たなければならない。ここで重要なのは、「自分の畑を持つ=畑を所有する」ということである。この所有の概念は非常に重要である。経済学においては所有の概念があるから様々な取引が可能であり、法律でも所有権という権利が守られているから自分の物を自由に使用したり処分したり出来るのである。所有の概念なくしては、我々の生活は成り立たない。その概念は、この農業の時代に生まれたのである。


所有の概念が生まれると、それを盗むという概念も同時に発生する。所有する者にとって、盗まれることは嫌なことである。そうすると、盗みが起こらないようにする何らかのルールや規範のようなものが必要になる。そこで出てくるのが法律である。しかし、明確な文字文化が共有されていない時代においては、特に法律というのはいろいろと面倒くさい。経済学的に説明すると、文字がない中で厳密な法律を制定するコスト、それを周知徹底するためのコスト、さらに法律を守らせるコストなど様々なコストがかかってしまうのである。つまり、この時代において法律は効率的な統率方法ではないのである。では、何を使うのか。


神様である。そして宗教である。この方法なら、少なくとも法律を利用した時にかかるコストは、ほぼゼロに近くなる。文字文化を持っていなくても教祖一人が個人的に考え方を作ればよく、言語を使って意思疎通が出来ればその考え方を伝えることは可能である。さらに、目に見えない神の力(例えば天罰が下る)を利用すれば、規律を守らせることもそれほど難しいことではない。その頃の人類にとっては、おそらく最もコストをかけずに人々を統率できる方法が、神の創造と宗教の利用だったのではないかと思う。


話をもう少し進める。規模の経済性の観点からすると、信者の数が増えれば統率の効率と範囲は大きくなるわけだから、ここで起こる人類の合理的な行動は布教である。布教をしてさらに人数が増えれば集団が形成される。そして、教祖あるいは経典に従う者が増えるわけだが、人数が増えるほど集団は組織的になり、管理する必要性が生じる。集団が大きくなれば教祖一人では管理できなくなるため、中間管理をする人物が必要になる。それが教祖による指名であっても選挙のような形であっても、上下の関係が生まれ、位が付くようになる。そして、そこに権限が発生し、権力が生まれるのである。日本の話をすると、邪馬台国が卑弥呼という呪術師によって治められていたことには、合理性があると言えるのではないだろうか。

ちょっとざっくりとした感じの展開だが、当たらずとも遠からず・・・じゃないかな?


最後に、しんたろうの話につなげる。「食糧備蓄によって余暇が生まれ、遊ぶ時間ができ、文明と文化が生まれる」とのことだが、おそらくこの農業の時代がその始まりであろう。狩猟採集の時代にも採集によってある程度の食糧備蓄は出来ただろうが、農業と比べれば圧倒的に少ないはずだ。十分な備蓄があるから余裕をもって生活が出来る。余裕があるから遊べる。そして遊ぶことで文化が生まれる。宗教という効率的な統治方法によって食糧備蓄を守ることは、単に人々を統率しまとめるだけでなく、保存しておくと盗まれるかもしれないという余計な心配事を取り除くことで遊びに集中できる環境を作ることに貢献したのではないだろうか。もしかすると、遊びや文化に関する活動が活発だったのは備蓄の量が威力を発揮する冬だったかもしれない。


この後、産業革命を迎え、さらなる生産性の向上がもたらされる。備蓄はさらに増え、多様性のある文化が発展してく・・・ということになるのだろう。


ちょっと長くなったが以上で。



よしずみ

「・・・電気のないところには民主主義は存在しえないのだから、かつてローマ人が意図したような大規模な整備が、電気や道路などを通じて、自由な学問、思想、生活状況の選択と平等を許すのが現実だと思えるのである。」 (曽野綾子 『弱者が強者を駆逐する』 p.48)

生きるだけにやっとの状況では文明は発達しない。生活に余裕が出来て初めて、ヒトは生存闘争以外の行動に従事できるようになる。今晩の食事の確保もままならないという状況では遊んでいる暇はない。食糧をとりにいく。もし、一か月分の食糧備蓄があったらどうだろうか。獲物をたべたあとの骨などをつかってゲームを考えついたりするかもしれない。余暇ができることで遊びがうまれる。

これはカラスの世界にも当てはまるらしい。どんな動物にも当てはまるように、カラスも自己保存のための生活がある。食糧、水などが絶対的に必要である。日々を必死に生きているカラスは遊ばない。逆にいえば必死にならずとも生きていけるカラスは遊ぶのである。必死にならずとも生きられる、というのは食糧、水がいつでも確保できる状況にあるということだ。これは都会のカラスに当てはまることらしい。なぜなら都会には食糧(家庭ごみ)や水(カラスは公園の水を得るために蛇口をひねる)が豊富にあるからである。

都会のカラスは滑り台であそぶらしい。何回も上り下りしてまるで人間のこどもとおなじように遊ぶのだそうだ。これは必死な生活を送る田舎のカラスにはあてはまらない。あそぶひまがない。

人間の文明が肥沃な土地で発達してきたのはこの理由からであると思う。古代ギリシャでは奴隷を使って生活手段を手にしていたために文明活動に専念できたのだし、産業革命で効率が飛躍した19世紀には科学が大きく発展した。これは暇な時間ができたから、ということに集約できるだろう。

書き出しの民主主義についても似たようなことがいえるのではないか。生活がぎりぎりのところでは生活状況の選択と平等という概念はうまれにくいだろう。なぜなら選択するべきほどの選択肢がないし、みんな貧乏という意味で平等であるからだ。余裕ができて備蓄が可能になり、所有権が発生したその時に不平等という考え方が生まれ、それが反転して平等への欲求につながるのが自然な考えではないか。

遊びは非常に重要だ。文明発展のために。大学生としてもうすこし遊ばせてもらいたい。

しんたろう