日本の風呂文化に関して多少調べたのでここで共有したいと思う。

今回の震災によって日本人にとって風呂文化がいかに大切か再発見できたように思う。
新聞・雑誌で被災地に浴槽が設置された記事が多く取り扱われていた。設置したのは自衛隊や米軍logistics部隊で被災者は苦しい心境の中、入浴することでつかの間のリラックスができた、ということだ。

もともと入浴は宗教的な儀式でリラックスする憩いの場という意識はなかった。
日本最古の浴槽は奈良・東大寺にあるという。これは施浴に用いられた。水が汚れをおとすために禊(みそぎ)としてつかわれたのだろう。この意識は割と世界的に共有されている。キリスト社会でも洗礼には水をつかうし、インダス川では沐浴による禊が行われる。

では何故日本社会に於いて浴場の聖から俗への転換がおこなわれ、大衆化したのか。その起源は江戸時代にある。銭を払って風呂につかる銭湯の最初は江戸にあり、伊勢与一というひとが1591年に始め大ヒットした。このころの江戸は建設期でありそのための労働者でにぎわう男社会であった。このひとたちが建設仕事にたずさわり汗をかき砂をかぶり、体を洗いに行ったのが大衆浴場だったのである。

承知の通り、銭湯でのマナーは入浴前に体を洗うことだ。つまり入浴によって禊をするという感覚はなくなり、入浴前に穢れを落とし、入浴はリラックスするためのものだという聖から俗への転換がおこなわれたのである。またそのような湯屋には座敷広間が併設されており入浴後はここでたむろい談義をした。欧米でいうサロンやカフェのような憩いの場、社会的な場、もしくはリラックスの場としての大衆浴場が誕生したのである。

大衆浴場ときいて思い出すのは古代ギリシャ・ローマのそれではないか。カラカラ帝の大衆浴場が語るとおりローマ時代において浴場の建設は民衆の人気取りに利用された。ということは、ヨーロッパ社会にも風呂文化があってしかるべきなのであるが、実際はそのようなことはない。毎日浴槽につかるのは日本人くらいだろう。

ギリシャ・ローマでよしとされた風呂文化だがキリスト的倫理観にはそぐわなかった。肌を露出することに抵抗感を示したからである。キリスト教が生活のあらゆる側面を支配していた中世時代では大衆浴場が生まれてくる余地はない。ではキリスト教からの解放がはじまったころ、つまりルネッサンス以前はどうだったのかというと、風呂文化は一時的に復活していた。

教皇権の衰退は十字軍の失敗とともにはじまるが、その十字軍がイスラムで風呂文化を再発見したのだ。いわゆるトルコ風呂がオスマン帝国には存続していたのである。これはイスラム世界ではハンマームと呼ばれる施設でここでは普段顔をかくさなければならない女性も素の姿でいることを許された。風呂では誰もが平等であるという考えなのであろう。

せっかく復活した風呂文化であったのだが、その後厄介なことがおきる。ペストである。ペストは毛穴を通して感染すると信じられていた。したがって風呂で裸を外気にさらすなど毛頭考えられなかった。さらに風呂文化は外的イスラームから逆輸入されたものであったのでその享受を忌避する傾向もあった。こうしてヨーロッパにおける風呂文化は再び衰退してしまった。ルイ14世は生涯に一度しか入浴しなかったという。この風呂文化の衰退はほかの文化に勢いを与えた。香水の発達である。汚れを落とすのでなくごまかすという発想に至ったのである。

大衆浴場の文化は日本人にとって欠かせないものだということはいうにも及ばない。2010年の漫画大賞はテルマエ・ロマエという風呂漫画であったが、この類の漫画はヨーロッパでは出てこないだろうし、対象なぞとりようもないだろう。世界は千と千尋の湯屋をどのようにみたのだろうか。

最後に大衆浴場が教育の場としても機能していたことを田村隆一氏の詩によって紹介したい。

銭湯すたれば人情もすたる
銭湯を知らない子供たちに 集団生活のルールとマナーを教えよ
自宅に風呂ありといえども そのポリ風呂は親子のしゃべりあう場にあらず
ただ体を洗うだけ
タオルの絞り方、体を洗う順序など、基本的ルールは誰が教えるのか
われは、わがルーツをもとめて銭湯へ

銭湯につかりながらのGAYOKU開催も、これもひとつ一興ではなかろうか。
しんたろう

こんばんは。のぶてるです。

今日は習志野高校が勝ってよかったです。


さて、面白そうなサイトがあったので、ここで紹介したいと思います。


高校生のための「超」教養講座 です。


大学教授が高校生を対象にして、ゲーム理論とか日本画とか花粉症とかいろいろ無料ビデオで語っています。


まともな記事もそのうちアップします!!

皆さん、引き続き素敵な夏休みをお過ごしくださいませ。

のぶてる



前回の記事では暗黙知についてすこし書いた。

暗黙知を説明するためによく使われる例えとして、人はどうやって他人の顔を認識しているか、ということが挙げられる。例えば、しんたろうはよしずみの顔をみて「この顔はよしずみの顔だ」と分かる。では何故よしずみの顔だとわかるのかと問われれば、鼻がどうので目がこうので、と言葉を使いながら説明を始めるだろう。

しかしどこかで言葉ではもはや説明できないレヴェルにぶちあたることになる。鼻がどうのというけれど、それはのぶてるのとそっくりだし、目がどうのというがそれはゆうじろうのとそっくりじゃないか、それはどうなんだ!といわれると、そんなの説明できない、とりあえずあの顔はよしずみなんだ!ということになる。

このように、ひとは言葉で表せるよりも多くのことを知ることが出来る。この知が暗黙知と呼ばれているものの正体である。前回では上級のピアノ演奏を一つの例として挙げた。自分の理解を超えた演奏は、ことばにして説明することはできないが、なんだかすごいのは分かる、というのが暗黙知で、原発や神とも結びつけて考えてみた。

ところでこの「暗黙知」を提唱し始めたのはマイケル・ポランニーで、GAYOKUでは時たま話題に上る『大転換』の著者カール・ポランニーの弟である。今回は弟・マイケル・ポランニーの思想を今日観た『トランスフォーマー』と無理やりこじつけてみたいと思う。神を原発にこじつけたように。

マイケル・ポランニーはリベラリズムを「英米系リベラリズム」と「ヨーロッパ大陸系リベラリズム」とに分類した。リベラリズムの特性として「思想の自由」と「理性の重視」がある。宗教戦争でめちゃくちゃになった状況でこのような理性・自由を求める声があがったのは当然ともいえる。

ではこの分類はどの違いによってなされたのかというと、「ある程度での自由の停止」か「どこまでも自由」か、という点で異なっている。「英米系」の代表者であるロックは、無神論者は信用できないとして否定している。これはリベラリズムの定義と矛盾する。一方、「大陸系」はどこまでも自由である。後者はなんでもokという感じで軽やかな感じがするが、実際はおおいなる闘いである。

いま私ことしんたろうが「他人の意見にはリスペクトを払うべきだ!」と叫んで廻っているとする。そういっているからには私は他人の意見に耳を傾けそれをリスペクトするはずである。そこである意見にぶち当たる。よしずみが「他人の意見なんかどうでもよい」といったらどうか。私はこれをリスペクトしなければならないのか。「英米型」はこれをゆるさない。自由はあるが自由を認めないやつはぶんなぐるぞ、である。「大陸型」はどこまでも自由だ。右ほほをなぐられれば左を差しだす。自由だ、なぐりたいならなぐれ、である。

ポランニーは「英米型」に肩入れする。「大陸型」のどこまでも自由な自由では必ず無秩序がくるからである。自由が過ぎると「悪」を排除できないからである。その典型がナチであった。「大陸系リベラリズム」では排除できない悪があるのだ。宗教を軸とする「英米型」とどこまでも自由を守りぬく「大陸型」がきれいに対比されている。後者は聖書の内容を疑うのも自由とした。ただし理性・自由は絶対に守る、という闘いをしている。理性崇拝が生まれたのもフランスだったはずだ。たしかコントの実証主義とか、そのあたり。神を排しその玉座に理性を置いた。

「英米型」は暗黙知を考慮に入れているといえるだろう。なんで人を殺してはいけないのか、という問にたいする答には言葉がなくなるレヴェルがくる。顔の認識と同じように。なんか言葉では言えないんだけど絶対にダメなんだ!と。だからロックは無神論者を信じないのだろう。神も暗黙知のaweに属しているのだから。「大陸型」は理性、理性。

自由の保障はなにがあっても守る、という「大陸型」の考え方は民主主義に似てはいないか。民主主義ではさまざまな「権利」が保証されている。少数意見だって考慮される。となれば「英米型」は立憲君主的な政体があてはまるだろうか。憲法(理性的な部分)を認めはするが最終的には君主(理解の範疇をこえたもの。王権「神」授説とか。)が重要な存在となっているからである。

なんだか同じことをずっと言っている気がするのでそろそろ本題に入りたい。ここからはTransformerを観たことを前提にしてしまうけど(ゆうじろう、みてね)。

どのようにこじつけるかというと、センチネルの立場が「英米型」でオプティマスは「大陸型」ということだ。

センチネルは人類が神を排除することを認めない。「サイバトロンではわれわれは神であった」とセンチネルは言う。そしてただ人間のお手伝いをさせられているだけの現状に怒りを表す。
これは彼の感覚では完全に神(awe)にたいする不敬なのである。技術に対する盲信によって神さえコントロールできると勘違いした人類をかれはゆるさない。この構図は原発=神をコントロールできると勘違いした最近の現実世界とも重なる。

aweである我々神をnestにおしこみ、awesome!といって尊敬することもしない人類に対して、センチネルは怒りを表し、awfulな結果をもたらそうとしたのだ。それがサイバトロンの復活、地球の破壊であった。

一方でオプティマスはどこまでも自由を守る。爆発する宇宙船を回避し地球にもどってきたオプティマスは「我々は自由だから人類を守る」と宣言する。センチネルの「多数の意見が少数のそれを駆逐するのだ」という言葉を否定する。かれは自由を認め、だれしにもその自由をまもらせようとする。センチネルに対しても、である。これは「大陸型」の考え方であるし、民主主義的な考えでもある。センチネルがオプティマスの勇敢さを褒めながら、「お前は優柔不断だ」というところには民主政治の決定の遅さが批判されているとも言えるだろう。

結局はオプティマスが勝利するのが民主主義をかかげるアメリカ映画である。
「英米型」といっておきながらアメリカ的民主主義を「大陸型」に分類したことは矛盾するようにみえる。
もうすこし考えてみたい。

しんたろう