「ステレオタイプ」と「ジェネラリゼーション」は、似ている概念だが違うものである。
ステレオタイプとは「ものごとを見る際にある型をおしつけること」である。
固定観念と訳されることもある。
例えば、このステレオタイプを用いたジョークでこんなものがある。
船が嵐に遭遇して沈没しかけている。船長は乗客を船から飛び降りるように仕向けないといけなくなった。
そしてイタリア人の乗客に「ここから飛び降りれば、オンナにもてますよ」、というとイタリア人は飛び込んだ。アメリカ人には「英雄になれますよ」。イギリス人には「紳士たるもの…」、ドイツ人には「規則ですから‥」、フランス人には「飛び込まないでください」、そういうと各々が海へと飛び込んでいった。ちなみに日本人には、「みんな、とびこんでますよ」。
これは国民性に対するステレオタイプだ。「~人は…である」という型が用いられている。つまりイタリア人はオンナのけつばかり追いかけ回していて、アメリカ人はヒロイズムに目がなく、フランス人はひねくれ者で、日本人は回りにあわせることばかり気にしているといった具合にである。他にも「工業技術が遅れていてポンコツ車に乗っているロシア人」や「ホモばかりがいるギリシャ人」などそのヴァライエティにはことかかない。
これに対してジェネラリゼーションは「一般化」と訳されるもので、ある事柄からより大きなカテゴリーのイメージをつくり出すことを言う。
例えば、「あまりにも辛くてとてもじゃないが食えないものを、韓国からきた友達がパクパクとおいしそうに食べた」という事例から「韓国人は辛さにたいして強い耐性をもった民族である」という結論を導きだしたり、「個人プレーが光るブラジルサッカー」をみて「ブラジル人は自分勝手な性格のやつが多い」と考えたりすることが、いわゆるジェネラリゼーションと呼ばれるものである。
一見するとステレオタイプもジェネラリゼーションも「~人は…だ」という型を採用している点において同じもののように感じる。たしかに「日本人は回りにあわせることばかり気にしている」というものの言い方と「 ブラジル人は自分勝手な性格のやつが多い」という言い方の間におおきな違いがあるとは思えない。
しかしまったく同じものを表すのに複数の名前があるのは不自然と思うのが普通で、両者の間には歴然とした違いがあるはずである。
同じペンであっても文字を書くために使われれば「筆記用具」と呼ばれ、相手の耳の中に差し込めば「武器」と呼ばれる。おなじ道具がつかわれていても、その「機能の仕方」が異なるために「筆記用具」・「武器」と呼び名も変わってくる。
「ジェネラリゼーション」と「ステレオタイプ」もおなじことである。「~人は…だ」という同じ型が用いられているが、その機能の仕方がことなるために違った呼び名があてられているのである。そしてその機能の仕方は以下の点で異なっている。それは「ステレオタイプ」は思考の終着点であるのに対して、「ジェネラリゼーション」はその出発点として機能するということである。
「ステレオタイプは思考の終着点として機能する」とはどういうことかというと、ものをみる際に、もとから持ち合わせていた見方に依存し、その見方から外れるものを無視してしまうことである。リップマンは『世論』のなかで、「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る」(『世論』p.111 岩波文庫)といっているが正にそうなのである。
例えば「韓国人は…な民族である」というステレオタイプをもっているひとはその「…」でない韓国人をみたところで自身の記憶にその人物をながくとどめることはない。強く認識しないからだ。逆に、ステレオタイプにハマった「…」な韓国人をみれば、「な、やっぱりそうだろ」といった具合に確信を強める。
「われわれが現に見ているものがわれわれの予期していたものとうまく一致していれば、そのステレオタイプは将来にわたっていっそう強化される。ちょうど、日本人はずるいと前から知らされている人が、あいにくと不正直な日本人二人とたまたま続けさまに出くわしてしまったようなときがそれである。」(ibid. p.136)というわけだ。
そういう意味で「ステレオタイプは思考の終着点として機能」しているのである。
一方で、ジェネラリゼーションは「思考の出発点として機能する」。つまりある固定の見方をもちつつもそれを即座に個別のものにあてはめるのでなく、あくまでも一般的な見方として用いるということである。
つまり「韓国人は…なひとが多い」といわれているけれど、この「私の目の前にいる」韓国からの友人も「…なひと」に当てはまるのかと、思考の足がかりとして採用されるのがジェネラリゼーションなのである。
この違いをふまえておかないと思いがけない失敗をすることがある。たかだか大学生でもそのような失敗を経験する。
ある私塾でバイトとして働いていたときのことである。クラス替えをするために一斉テストを実施した。予想通り上位クラスにいくにつれてその平均点はあがっていった。結果としてテストによる生徒の入れ替えは殆どおこなわれなかった。
その後、自分の受け持つクラスが変更され、いままでより上位クラスが割り当てられた。そのクラスの平均点をみて「78.5点をとれるレヴェルなら、こういった箇所は省いて授業をすすめていいだろう」と授業準備を減らすことができた。
しかしこの考えは、上記のカテゴリーに従えばステレオタイプタイプであった。「平均点78.5点」がこのクラスの集団に対する固定されたみかたになっていた。つまり78.5点が思考の終着点であった。
もしこれがジェネラリゼーションであったなら、「平均点78.5」を踏まえた上で、「じゃあ、『この生徒』は78.5点を得点する生徒に求められる基礎的内容を習得しているのかな」とみたはずである。
しかし、授業が集団であったこともあって、そのクラスの生徒は平均的にここまでは理解していると高をくくって授業を進行した。しかし後の演習時間で個人のあいだを回っているときに、そうでない生徒がでてきて当たり前の事実に気づかされた。
それは「平均点はたしかに78.5点であるが、実際に78.5点をとった生徒はいない」という本当に当たり前のことであった。テストの配点上、この点数はとれないことになっていた。つまり60点の子もいれば、90点の子もいて、そういった学力にバラツキのある生徒達がクラスを構成していたのである。このことに気づいて授業の在り方も反省せざるをえなかった。
このように、ある固定された見方があったときにそれをステレオタイプとして用いれば個別な物への眼差しが弱まって、結果として「いま、ここに ある/いる」ものが当然受けてしかるべきであった注意を失くしてしまう危険がある。
最近は日本と近隣諸国との間で緊張が高まっているように思う。友人が語るその仕方や、ネット上での発言からは強い敵対心を感じることがある。僕はそれに関しては別にかまわないと思っている。政治的正しさや歴史的正当性がウィッチサイドにあるか、それは追求してもらっても全然構わない、そう思っている。
しかしここで僕が言いたいのはそういったことをどうやって追求したら良いか、といったことではない。そういった「おおきなフレームの話」ではない。問題は「他の人と仲よくやっていくにはステレオタイプは放棄したほうがよいのではないか」ということにある。
友人のひとりが、彼の友人を非難するときに「あの子は韓国人だから…、やっぱり~なところがあるんだよ」といっていて違和感を覚えたのである。なぜなら僕の一番の親友は韓国人だからである。「おい、韓国人だからってそうとは限んないぜ。それはそいつがたまたまヤなやつだったんだよ。」
彼はその友人に対してステレオティピカルな見方をしていたのだろうと思う。「見てから定義せずに、定義していたもので見ていた」のだと思う。だからその型にはまる「悪い点」はスッと認識されるのに、良いところはなかなか受け付けなかったのだろう。「いま、ここにいる友人」を彼は見落とした。
ステレオタイプは「個別のものと良い関係を築いていくのに寄与するところゼロである」。ただそれだけの理由で日常生活においてそれは放棄したほうが良いだろうといいたいのである。大きな話ではなく、日常に於ける自分の半径1メートル内のことだ。
その方が、「こちら、韓国からきたキム君」と紹介されたときに、仲良くなれる確率が高まるのではないか。すくなくとも僕はそう思っている。
しんたろう
(StereotypeとGeneralizationの違いに関しては以下のサイトを参考にした。
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1070887/ )
ステレオタイプとは「ものごとを見る際にある型をおしつけること」である。
固定観念と訳されることもある。
例えば、このステレオタイプを用いたジョークでこんなものがある。
船が嵐に遭遇して沈没しかけている。船長は乗客を船から飛び降りるように仕向けないといけなくなった。
そしてイタリア人の乗客に「ここから飛び降りれば、オンナにもてますよ」、というとイタリア人は飛び込んだ。アメリカ人には「英雄になれますよ」。イギリス人には「紳士たるもの…」、ドイツ人には「規則ですから‥」、フランス人には「飛び込まないでください」、そういうと各々が海へと飛び込んでいった。ちなみに日本人には、「みんな、とびこんでますよ」。
これは国民性に対するステレオタイプだ。「~人は…である」という型が用いられている。つまりイタリア人はオンナのけつばかり追いかけ回していて、アメリカ人はヒロイズムに目がなく、フランス人はひねくれ者で、日本人は回りにあわせることばかり気にしているといった具合にである。他にも「工業技術が遅れていてポンコツ車に乗っているロシア人」や「ホモばかりがいるギリシャ人」などそのヴァライエティにはことかかない。
これに対してジェネラリゼーションは「一般化」と訳されるもので、ある事柄からより大きなカテゴリーのイメージをつくり出すことを言う。
例えば、「あまりにも辛くてとてもじゃないが食えないものを、韓国からきた友達がパクパクとおいしそうに食べた」という事例から「韓国人は辛さにたいして強い耐性をもった民族である」という結論を導きだしたり、「個人プレーが光るブラジルサッカー」をみて「ブラジル人は自分勝手な性格のやつが多い」と考えたりすることが、いわゆるジェネラリゼーションと呼ばれるものである。
一見するとステレオタイプもジェネラリゼーションも「~人は…だ」という型を採用している点において同じもののように感じる。たしかに「日本人は回りにあわせることばかり気にしている」というものの言い方と「 ブラジル人は自分勝手な性格のやつが多い」という言い方の間におおきな違いがあるとは思えない。
しかしまったく同じものを表すのに複数の名前があるのは不自然と思うのが普通で、両者の間には歴然とした違いがあるはずである。
同じペンであっても文字を書くために使われれば「筆記用具」と呼ばれ、相手の耳の中に差し込めば「武器」と呼ばれる。おなじ道具がつかわれていても、その「機能の仕方」が異なるために「筆記用具」・「武器」と呼び名も変わってくる。
「ジェネラリゼーション」と「ステレオタイプ」もおなじことである。「~人は…だ」という同じ型が用いられているが、その機能の仕方がことなるために違った呼び名があてられているのである。そしてその機能の仕方は以下の点で異なっている。それは「ステレオタイプ」は思考の終着点であるのに対して、「ジェネラリゼーション」はその出発点として機能するということである。
「ステレオタイプは思考の終着点として機能する」とはどういうことかというと、ものをみる際に、もとから持ち合わせていた見方に依存し、その見方から外れるものを無視してしまうことである。リップマンは『世論』のなかで、「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る」(『世論』p.111 岩波文庫)といっているが正にそうなのである。
例えば「韓国人は…な民族である」というステレオタイプをもっているひとはその「…」でない韓国人をみたところで自身の記憶にその人物をながくとどめることはない。強く認識しないからだ。逆に、ステレオタイプにハマった「…」な韓国人をみれば、「な、やっぱりそうだろ」といった具合に確信を強める。
「われわれが現に見ているものがわれわれの予期していたものとうまく一致していれば、そのステレオタイプは将来にわたっていっそう強化される。ちょうど、日本人はずるいと前から知らされている人が、あいにくと不正直な日本人二人とたまたま続けさまに出くわしてしまったようなときがそれである。」(ibid. p.136)というわけだ。
そういう意味で「ステレオタイプは思考の終着点として機能」しているのである。
一方で、ジェネラリゼーションは「思考の出発点として機能する」。つまりある固定の見方をもちつつもそれを即座に個別のものにあてはめるのでなく、あくまでも一般的な見方として用いるということである。
つまり「韓国人は…なひとが多い」といわれているけれど、この「私の目の前にいる」韓国からの友人も「…なひと」に当てはまるのかと、思考の足がかりとして採用されるのがジェネラリゼーションなのである。
この違いをふまえておかないと思いがけない失敗をすることがある。たかだか大学生でもそのような失敗を経験する。
ある私塾でバイトとして働いていたときのことである。クラス替えをするために一斉テストを実施した。予想通り上位クラスにいくにつれてその平均点はあがっていった。結果としてテストによる生徒の入れ替えは殆どおこなわれなかった。
その後、自分の受け持つクラスが変更され、いままでより上位クラスが割り当てられた。そのクラスの平均点をみて「78.5点をとれるレヴェルなら、こういった箇所は省いて授業をすすめていいだろう」と授業準備を減らすことができた。
しかしこの考えは、上記のカテゴリーに従えばステレオタイプタイプであった。「平均点78.5点」がこのクラスの集団に対する固定されたみかたになっていた。つまり78.5点が思考の終着点であった。
もしこれがジェネラリゼーションであったなら、「平均点78.5」を踏まえた上で、「じゃあ、『この生徒』は78.5点を得点する生徒に求められる基礎的内容を習得しているのかな」とみたはずである。
しかし、授業が集団であったこともあって、そのクラスの生徒は平均的にここまでは理解していると高をくくって授業を進行した。しかし後の演習時間で個人のあいだを回っているときに、そうでない生徒がでてきて当たり前の事実に気づかされた。
それは「平均点はたしかに78.5点であるが、実際に78.5点をとった生徒はいない」という本当に当たり前のことであった。テストの配点上、この点数はとれないことになっていた。つまり60点の子もいれば、90点の子もいて、そういった学力にバラツキのある生徒達がクラスを構成していたのである。このことに気づいて授業の在り方も反省せざるをえなかった。
このように、ある固定された見方があったときにそれをステレオタイプとして用いれば個別な物への眼差しが弱まって、結果として「いま、ここに ある/いる」ものが当然受けてしかるべきであった注意を失くしてしまう危険がある。
最近は日本と近隣諸国との間で緊張が高まっているように思う。友人が語るその仕方や、ネット上での発言からは強い敵対心を感じることがある。僕はそれに関しては別にかまわないと思っている。政治的正しさや歴史的正当性がウィッチサイドにあるか、それは追求してもらっても全然構わない、そう思っている。
しかしここで僕が言いたいのはそういったことをどうやって追求したら良いか、といったことではない。そういった「おおきなフレームの話」ではない。問題は「他の人と仲よくやっていくにはステレオタイプは放棄したほうがよいのではないか」ということにある。
友人のひとりが、彼の友人を非難するときに「あの子は韓国人だから…、やっぱり~なところがあるんだよ」といっていて違和感を覚えたのである。なぜなら僕の一番の親友は韓国人だからである。「おい、韓国人だからってそうとは限んないぜ。それはそいつがたまたまヤなやつだったんだよ。」
彼はその友人に対してステレオティピカルな見方をしていたのだろうと思う。「見てから定義せずに、定義していたもので見ていた」のだと思う。だからその型にはまる「悪い点」はスッと認識されるのに、良いところはなかなか受け付けなかったのだろう。「いま、ここにいる友人」を彼は見落とした。
ステレオタイプは「個別のものと良い関係を築いていくのに寄与するところゼロである」。ただそれだけの理由で日常生活においてそれは放棄したほうが良いだろうといいたいのである。大きな話ではなく、日常に於ける自分の半径1メートル内のことだ。
その方が、「こちら、韓国からきたキム君」と紹介されたときに、仲良くなれる確率が高まるのではないか。すくなくとも僕はそう思っている。
しんたろう
(StereotypeとGeneralizationの違いに関しては以下のサイトを参考にした。
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1070887/ )