「ステレオタイプ」と「ジェネラリゼーション」は、似ている概念だが違うものである。

ステレオタイプとは「ものごとを見る際にある型をおしつけること」である。
固定観念と訳されることもある。

例えば、このステレオタイプを用いたジョークでこんなものがある。

船が嵐に遭遇して沈没しかけている。船長は乗客を船から飛び降りるように仕向けないといけなくなった。

そしてイタリア人の乗客に「ここから飛び降りれば、オンナにもてますよ」、というとイタリア人は飛び込んだ。アメリカ人には「英雄になれますよ」。イギリス人には「紳士たるもの…」、ドイツ人には「規則ですから‥」、フランス人には「飛び込まないでください」、そういうと各々が海へと飛び込んでいった。ちなみに日本人には、「みんな、とびこんでますよ」。

これは国民性に対するステレオタイプだ。「~人は…である」という型が用いられている。つまりイタリア人はオンナのけつばかり追いかけ回していて、アメリカ人はヒロイズムに目がなく、フランス人はひねくれ者で、日本人は回りにあわせることばかり気にしているといった具合にである。他にも「工業技術が遅れていてポンコツ車に乗っているロシア人」や「ホモばかりがいるギリシャ人」などそのヴァライエティにはことかかない。

これに対してジェネラリゼーションは「一般化」と訳されるもので、ある事柄からより大きなカテゴリーのイメージをつくり出すことを言う。

例えば、「あまりにも辛くてとてもじゃないが食えないものを、韓国からきた友達がパクパクとおいしそうに食べた」という事例から「韓国人は辛さにたいして強い耐性をもった民族である」という結論を導きだしたり、「個人プレーが光るブラジルサッカー」をみて「ブラジル人は自分勝手な性格のやつが多い」と考えたりすることが、いわゆるジェネラリゼーションと呼ばれるものである。

一見するとステレオタイプもジェネラリゼーションも「~人は…だ」という型を採用している点において同じもののように感じる。たしかに「日本人は回りにあわせることばかり気にしている」というものの言い方と「 ブラジル人は自分勝手な性格のやつが多い」という言い方の間におおきな違いがあるとは思えない。

しかしまったく同じものを表すのに複数の名前があるのは不自然と思うのが普通で、両者の間には歴然とした違いがあるはずである。
同じペンであっても文字を書くために使われれば「筆記用具」と呼ばれ、相手の耳の中に差し込めば「武器」と呼ばれる。おなじ道具がつかわれていても、その「機能の仕方」が異なるために「筆記用具」・「武器」と呼び名も変わってくる。

「ジェネラリゼーション」と「ステレオタイプ」もおなじことである。「~人は…だ」という同じ型が用いられているが、その機能の仕方がことなるために違った呼び名があてられているのである。そしてその機能の仕方は以下の点で異なっている。それは「ステレオタイプ」は思考の終着点であるのに対して、「ジェネラリゼーション」はその出発点として機能するということである。

「ステレオタイプは思考の終着点として機能する」とはどういうことかというと、ものをみる際に、もとから持ち合わせていた見方に依存し、その見方から外れるものを無視してしまうことである。リップマンは『世論』のなかで、「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る」(『世論』p.111 岩波文庫)といっているが正にそうなのである。

例えば「韓国人は…な民族である」というステレオタイプをもっているひとはその「…」でない韓国人をみたところで自身の記憶にその人物をながくとどめることはない。強く認識しないからだ。逆に、ステレオタイプにハマった「…」な韓国人をみれば、「な、やっぱりそうだろ」といった具合に確信を強める。

「われわれが現に見ているものがわれわれの予期していたものとうまく一致していれば、そのステレオタイプは将来にわたっていっそう強化される。ちょうど、日本人はずるいと前から知らされている人が、あいにくと不正直な日本人二人とたまたま続けさまに出くわしてしまったようなときがそれである。」(ibid. p.136)というわけだ。

そういう意味で「ステレオタイプは思考の終着点として機能」しているのである。

一方で、ジェネラリゼーションは「思考の出発点として機能する」。つまりある固定の見方をもちつつもそれを即座に個別のものにあてはめるのでなく、あくまでも一般的な見方として用いるということである。

つまり「韓国人は…なひとが多い」といわれているけれど、この「私の目の前にいる」韓国からの友人も「…なひと」に当てはまるのかと、思考の足がかりとして採用されるのがジェネラリゼーションなのである。

この違いをふまえておかないと思いがけない失敗をすることがある。たかだか大学生でもそのような失敗を経験する。

ある私塾でバイトとして働いていたときのことである。クラス替えをするために一斉テストを実施した。予想通り上位クラスにいくにつれてその平均点はあがっていった。結果としてテストによる生徒の入れ替えは殆どおこなわれなかった。

その後、自分の受け持つクラスが変更され、いままでより上位クラスが割り当てられた。そのクラスの平均点をみて「78.5点をとれるレヴェルなら、こういった箇所は省いて授業をすすめていいだろう」と授業準備を減らすことができた。

しかしこの考えは、上記のカテゴリーに従えばステレオタイプタイプであった。「平均点78.5点」がこのクラスの集団に対する固定されたみかたになっていた。つまり78.5点が思考の終着点であった。

もしこれがジェネラリゼーションであったなら、「平均点78.5」を踏まえた上で、「じゃあ、『この生徒』は78.5点を得点する生徒に求められる基礎的内容を習得しているのかな」とみたはずである。

しかし、授業が集団であったこともあって、そのクラスの生徒は平均的にここまでは理解していると高をくくって授業を進行した。しかし後の演習時間で個人のあいだを回っているときに、そうでない生徒がでてきて当たり前の事実に気づかされた。

それは「平均点はたしかに78.5点であるが、実際に78.5点をとった生徒はいない」という本当に当たり前のことであった。テストの配点上、この点数はとれないことになっていた。つまり60点の子もいれば、90点の子もいて、そういった学力にバラツキのある生徒達がクラスを構成していたのである。このことに気づいて授業の在り方も反省せざるをえなかった。

このように、ある固定された見方があったときにそれをステレオタイプとして用いれば個別な物への眼差しが弱まって、結果として「いま、ここに ある/いる」ものが当然受けてしかるべきであった注意を失くしてしまう危険がある。

最近は日本と近隣諸国との間で緊張が高まっているように思う。友人が語るその仕方や、ネット上での発言からは強い敵対心を感じることがある。僕はそれに関しては別にかまわないと思っている。政治的正しさや歴史的正当性がウィッチサイドにあるか、それは追求してもらっても全然構わない、そう思っている。

しかしここで僕が言いたいのはそういったことをどうやって追求したら良いか、といったことではない。そういった「おおきなフレームの話」ではない。問題は「他の人と仲よくやっていくにはステレオタイプは放棄したほうがよいのではないか」ということにある。

友人のひとりが、彼の友人を非難するときに「あの子は韓国人だから…、やっぱり~なところがあるんだよ」といっていて違和感を覚えたのである。なぜなら僕の一番の親友は韓国人だからである。「おい、韓国人だからってそうとは限んないぜ。それはそいつがたまたまヤなやつだったんだよ。」

彼はその友人に対してステレオティピカルな見方をしていたのだろうと思う。「見てから定義せずに、定義していたもので見ていた」のだと思う。だからその型にはまる「悪い点」はスッと認識されるのに、良いところはなかなか受け付けなかったのだろう。「いま、ここにいる友人」を彼は見落とした。

ステレオタイプは「個別のものと良い関係を築いていくのに寄与するところゼロである」。ただそれだけの理由で日常生活においてそれは放棄したほうが良いだろうといいたいのである。大きな話ではなく、日常に於ける自分の半径1メートル内のことだ。

その方が、「こちら、韓国からきたキム君」と紹介されたときに、仲良くなれる確率が高まるのではないか。すくなくとも僕はそう思っている。

しんたろう

(StereotypeとGeneralizationの違いに関しては以下のサイトを参考にした。
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1070887/ )
少し前に、日本における教育問題を調べたことがある。
そこで我々がみた問題点とは、日本の詰め込みに偏重した教育の方法である。

日本では小学校、いや幼稚園でさえ、その教育方針は右に倣えで他人と同調することが生徒には求められる。出る杭は打たれるし、不届きものは先生にチクられ叱責を受ける。これは、Creativityや個性の強さが大事とされるグローバリズム社会では、有能な人材を育てることができないだろうということだった。

たしかに市場が世界規模になっている現在、新しいアイディアは毎日出現しているし、実際に勝ち残っている企業はいままでに全くなかった技術や商品を発明したところであるようだ。アップル社のジョブスだってその個性・発想の斬新さによって、世界的名声を手に入れたと言ったとしても、否定されることは少ないだろう。

アメリカの教育では個性の発露が第一義にされ、ジョブスのような人材が出てきやすい。educationの語源は古代ギリシャ語のeducere(エデュケーレ)にあるが、その意味は「外に(e)導き出す(ducere)」で、アメリカ型の教育は個性を生徒の内面から引き出すという意味で教育の目的を達成しているといえるだろう。

その一方で日本における教育は後れをとっているといえなくもないが、educereをそのまま日本の教育が目指してよいのかについては疑問が残る。「教育」の語源を字引に尋ねれば、「教」はムチの形から、「育」は出産の形からきた文字であるらしい。

つまりムチ打って生徒に勉強を強いる、いわゆる「詰め込み型」教育と、逆に、生徒の内面から良いところを引き出す、いわゆるアメリカ型のeducationの両面性があって初めて「教育」となるという考え方が東洋的なのである。

大事なのはどちらか一方を採択することでなく、その両面のバランスなのだ。「教」の方に重点がおかれて問題になっているのが日本の教育であり、「育」の方に重点を置きすぎたアメリカでも問題が起きている。

E.D. HirshはCultural Literacyを提唱し始めた学者である。彼は、アメリカの「育」重視の教育の結果をみて嘆いた。なぜならば、個性偏重の教育では基礎教養がおざなりにされ、アメリカ人として知っているはずの知識を共有できない世代が出てきたからである。

日本で言えば、桃太郎の話や、国歌、鴎外の小説、黒沢映画や太平洋戦争、平塚雷鳥に上野千鶴子、日本史・地理、岸田隆盛に黒田清輝、新渡戸稲造に内村鑑三などなど、日本人なら知っていて当然とされることがあるが、ある時代以降のアメリカでは「育」に偏重し、このような基盤が失われ、初めて会った2人が話せる共通の話題がなくなってしまったのである。

そこでHirschは‘Cultural Literacy-What every Americans needs to know-’という本の中で、聖書から神話、諺やアート、文学や宗教、世界史に世界地理、地学や生命科学・医療、政治、人類学、社会学、ビジネス、経済学などの基礎知識を盛り込み、「教」の復権を図ったのである。

つまり、「教」一辺倒でもダメだし、だからといって「育」に偏りすぎても問題が出てくるのである。ここで「Creativityと何処から来るものや」という疑問が起こってくる。

一般的な「神話」ではeducation型の個性を重視する教育が創造力を養うものであるとされている。しかしここで結論付けたいのは全く逆で、「Creativityとは『教』型の教育があって初めて『やってくるもの』である」ということである。

まず、創造性の要素であるインスピレーションは多くの人が考えているように自分の「内側から湧き出てくる」ものではなく、「未知なる外側からやってくる」ものであることを言ってみたい。

エリザベス・ギルバートは『食べて、祈って、恋をして』で世界的に売れに売れた作家であるが、TEDでCreativityにかんするスピーチを行っている。

彼女によれば、Genius(「天才」)という言葉の用法は、今日のように人物を形容する言葉ではなかった。

もともとの語源はGeni(ジーニ)であり、それはアトリエなどに住まう「ちっちゃいおっさん」であった。本当は妖精だったかな。作品を手掛けているアーティストがいて、ふとした瞬間にその人の中に入り込みその完成を助ける、それがジーニの役割だった。

つまり、インスピレーションはどこか未知の外側からやってくるものであって、自分のなかから湧き出てくるものではなかった。昔の人はこれを分かっていたのだ。

たとえば、ある詩人がいた。その人は畑仕事をしているとき山の向こう側からアイディアがやってくるのを感じた。そのアイディアが自分にやってきたときにペンを持って詩をかいていた。タイミングがうまく合えばその詩を完成させることが出来るし、アイディアを掴みそこなえばそれは永遠に失われてしまった。

ある時、いつもと同じようにその詩人は山の向こうからの轟をきいた。急いで家に駆け込み、そのアイディアを文字にしようとしたが、その時、すでにそれは自分の体の中を通り抜けてどこか彼方へ向かってしまうところであった。が、なんとかその尻尾を掴み、自分の中に手繰り寄せ文字にした。ただ、尻尾をつかんで文字にしたため、その詩は通常のものと異なり、語順が全く逆になってしまったらしい。

この詩人もCreativityが自分から湧き出てくるものではないことを知っていた。だからアイディアを逃さまいと必死に走ったのだ。inspirationの語源は「内側への(in)息(spire)」であるが、これは未知なる存在(神)が人間にその息をフッと吹きかけることであり、これもインスピレーションが外側から来ることを示している。

徳富蘇峰は『国民之友』に寄稿した「インスピレーション」のなかで次のようなことを言っている。

「又た突如として我れ自から我れたるを忘れ、我れ自から我れより超越するに至ることあり、之れを『インスピレーシヨン』と云ふ」(『国民之友』第二巻 p.128)

また外山滋比彦は、『思考の生理学』のなかでエリオットによる「伝統と個人の才能」引き合いに出したのち、同じようなことをいう。

「新しいことを考えるのに、すべて自分の頭から絞り出せると思ってはならない。無から有を生じるような思考などめったにおこるものではない。すでに存在するものを結びつけることによって、新しいものが生まれる。…。まったく何もないところにインスピレーションがおこるとは考えられない。さまざまな知識や経験や感情がすでに存在する。そこへひとりの個性が入って行く。すると、知識と知識、あるいは、感情と感情とか結合して、新しい知識、新しい感情を生みだす。その場合、人は無心であることが望ましい。」(p.57)

このようにインスピレーションの本質とはそれが未知なる外部からやってくることにある。また違う言葉の語源をみてみたい。

fanaticは現在でこそ「狂信的な」とネガティヴな意味合いで使われるが、そのもともとの使い方は、神殿などで「神懸かった」スピーチをしているひとにたいして使われる言葉だった。

イスラム世界では神儀として踊りが行われていたが、そこでも神懸かったダンスをするものがまれにあらわれた。それは明らかに神懸かっていたために周りの聴衆もそれに気づき、その時は神の御名をとなえた。「アッラー」。これがスペインにも文化として継承され、フラメンコを踊る時には、アッラーがなまって「オゥレイ!」が使われるようになったらしい。

このように昔の人々はインスピレーション、若しくは、クリエイティヴィティーが外部からくることを知っていた。では、どこでこの考えが失われたのか。ここにルネッサンスがある。

ルネッサンスの根本思想は人間中心のヒューマニズムであるが、この時代にダ・ヴィンチがラファエロがミケランジェロが輩出された。そしてこの人たちを形容するために使われた言葉がGeniusであったのだ。ここでインスピレーションは自分の内側から出てくるものへと変換された。人間のオゴリが始まったのである。

educationの重みが増してくるのはこの時代からである。

さて、ここで、「Creativityとは『教』型の教育があって初めて『やってくるもの』である」、という初めの題に戻りたい。

19世紀のドイツの哲学者にショウペンハウエルというひとがいた。哲学者らしく言葉の使い方に非常に敏感なひとだった。しかし、当時のドイツではジャーナリズムが進み、ジャーナリズム特有の言葉の使い方が横行しており、彼はそれに我慢がならなかった。

その文章の特徴とすれば、ことばの省略である。もしくは同じことをいうのになるべく少ない文字数で行おうという大変な努力である。紙面が限られているジャーナリストからすれば当然のこととも思える。

ショウペンハウエルはここに我慢がならなかった。文章の美しさは規範にのっとって書くことで初めて到達できるものだと考えていたからである。当時のドイツではそれが失われていた。

ニーチェはショウペンハウエルに影響をうけた、またもやドイツ哲学者であるが、同じことを主張している。つまり、自分勝手に筆を運んでいて素晴らしい文章、感動を与える文章を完成させることは不可能であり、そのような文章を書きたければ古代ギリシャまで遡る規範を体得すべきであると唱えたのである。

武田双雲という書道家は新しい(クリエイティヴ)な書で有名であるが、毎日、手本を写す練習をしているらしい。これは規範を体得することで初めてクリエイティブなものをつくれるというニーチェの思想と通底している部分があるのではないか。

また、ニーチェは最終的な規範に古代ギリシャの文章をおくのだが、その道筋に他の文筆家の名もあげている。そのひとりがゲーテであるが、ゲーテについてはショウペンハウエルも『読書について』のなかで引用している。

「だがゲーテは言っている。『勝手気ままな生活を営むのは下賤の者、秩序と規則を求めるのは高貴なる者。』気違いじみた国語破壊の風潮も…。」(p.94)

ショウペンハウエルの主張は一貫していることがわかる。

ニーチェは文献学者でギリシャ語の文献を多く読んだと思われる。その中で規範を体得したのだろう。そして彼は新しい(!)ドイツ語を生みだした。

ニーチェ嫌いの日本人哲学者中島義道さんも「言語創造力に関しては掛け値なしの天才である」(『善人ほど悪いやつはいない―ニーチェの人間学―、p.8』とその文章の高貴さはみとめている。

これをみれば、規範、つまり型を習得することによって新たなものを創造したことをニーチェが言うのは説得力がある。

特に言語というのは生まれた時にすでにそこにあるものとしてあるので、自分勝手に創造することは難しい。言語に天才は稀である。英語を勉強したことがあるひとなら分かるはずである。inviteは招待するという意味ということは習得しなければならない。インヴァイトという言葉を聞いて「もしかしたらさ、招待するっていみじゃない?」と言った人がいたら本当の天才かただのまぐれあたりでしかない。

言語に関して言えば、模倣(ミメーシス)によって基礎的なものを習得しなければならない。外山さんがいっているように、他のことに関してもしかりである。さまざまな知識・感情があってそれを知ってから新たな創造(インスピレーション)が生まれるのである。

Hirschが嘆いたのはこの当たり前の感覚が失われたことにあると思う。

やはり「型」は大事なのである。型があって初めてものごとが動き始める。言葉は「型」を大事にする典型であるが、ヨハネによる福音書の出だしはそれを象徴している気がする。

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.(原初(はじめ)に言葉ありき、言葉は神と倶(とも)にありき、言葉は神なりき。)

また、パスカルが「祈る形をすれば信仰は後からついてくる」といったとおり、初めに「型」ありきで、信仰はその型から「やってくる」もののはずである。

スイミングのコーチをしている、のぶてるが教えてくれたことによれば、生徒の泳法を観察し、その問題点を指摘してもなかなか改善されるわけでもないらしい。その時には、生徒にフィンを装着させ、手かきを補助する器具を装着させるらしい。

その目的は早い泳ぎ方の「型」をみせることにあり、これを体感することで目指すべきところを知り、新たな自身を創造する助けにするということだ。

「型」を体得した者が創造していく資格を得る。だから「Creativityとは『教』型の教育があって初めて『やってくるもの』である」なのだ。

英語のIt occurred to me that~という表現にはこの考え方があるのではないかとも思うのだが、そして、英語で感情を表現するときにはI’m surprised~と受動態にするのにも同じことが言えるのではないかとも思うのだが、この点についてはもうしばらく調べる必要がある。

デカルトは『情念論』のなかで古代ギリシャ語pathos(パトス)から派生した英単語を二つあげていて、そのひとつがpassionであり感情を表す単語であり、もうひとつがpassiveであり受動を表す。ここからも「感情は外部のどこかからやってくる」という考えが潜んでいるように思われる。鍵は古代ギリシャにあり!(かもしれない)。

しんたろう
5月の記事でゆうじろうが、マクロスのセリフを題材に、「意味の不在の否定」に関して考察をしてくれた。それを読み直してみて、すこし関連しているものがあると思ったので、ここに書きたいと思う。

まず、ゆうじろうがいったことを軽く、ぼく(しんたろう)の言葉で表現してみたい。

マクロスのタチコマのセリフ。「なんだか前にはよくわからなかった、"神"ってやつの存在も、近頃はなんとなくわかる気がしてきたんだ・・・。もしかしたらだけどさ、数字の"ゼロ"に近い概念なんじゃないかって。要するに、体系を体系足らしめるために要請される、"意味の不在"を否定する記号なんだよ。そのアナログなのが"神"でデジタルが"ゼロ"。」

アニメのセリフらしいのだが、これがなかなか難しい。子供向けではないのだろう。
ここでは「神」と「ゼロの概念」が対比されている。

まず「ゼロの概念」についてだが、原初、数字の世界において存在したのは正整数のみであった。「この世に存在するもの」を表す記号として1、2、3、…、nが使われていた。たとえば2個のオリーブの実、3方向に分かれた道、などがあり、マイナス1個のみかんやゼロ個のハーブといった表現はありえなかった。なぜなら、そんなものは「現実の世界にはない」からである。

ということは、ゼロという表現自体が存在していなかった。インドでの「ゼロの概念」の発見が仰々しく歴史の教科書に書かれていることからも、それがいかに特殊なものであったかを教えてくれる。

では「ゼロの概念」のすごさは何か。それは今まで存在せず、存在しないことを知られてさえいなかった、もしくは意識されていなかったものが、‘0’という表記がでてくることで、存在することになったのだ。端的にいえば‘0’によって「ないものが、ある」ということを表しているということである。

1、2、3、…と数えられる物のようには現実に存在しないけど、実はあるよねー、というものが「ゼロの概念」なのである。ゆうじろうはこれと仏教における「空」の思想を関連付けてくれたが、まさしく同じ構造をとっているとおもう。「有にして無、無にして有、」つまり、「ないものが、ある。」これによってゼロの不在が、否定されている。

ではそれと対比された「神」の存在についてはどうか。この「神」という記号も、意味の不在(意味がないこと)を否定している(つまり、意味はある!と肯定している)のである。


つまらないことを言うが、人間の営みに大した意味はない。生まれて、食って、寝て、動いて、セックスして、そだてて、死んで、その繰り返しである。この営みはずっと繰り返されてきた。そして、これからも繰り返されていく。ここに意味はない。確実にない。~のために生きている、と言う人もいるが、「それはなぜ?」を繰り返し聞いていくと、どこかで停止する場面がくるはずだ。絶対的な意味が不在しているからである。どうせ死んじゃうのに、どうして生きているの?、なんて聞かれたときはギョッとする。

僕ら人間はその事実に耐えて日々の生活を滞りなく済ませられるほどタフではない。意味がないことに耐えられないのだ。そこで僕らは、ないものを表す記号をつくることで、その不在性を否定する。ここにおいてその記号の役割を担うのが「神」なのである。「ゼロの概念」が一つの不在性を否定してくれたように、「神」は、この世の意味の不在性を否定してくれるのだ。「神」という記号によって、本来なかった生きる意味が「ある」とされるのである。

これが「神」と「ゼロの概念」が対比されうる所以である、と僕は考えた。そしてゆうじろうはさらに一歩踏み込んで、この「神」という記号を創出するその体系は人間である、と示してくれている。つまり、先ほど述べたようにわれわれはタフさを持ち合わせないために意味の不在に不安をおぼえ、その結果、われわれ「人間が」、「神」という記号を持ち出すということである。

人間は神を必要としているのであるが、逆に言えば神こそが人間を必要としているのである。神は拝されてナンボであって、崇拝されない神は、存在しないのと同じである。ゼロという記号が生まれる前は、ゼロはなかったのと同じように、である。つまり人間が「神」を創出するのであって、けっしてその逆ではない。

ここには人間社会を理解するためのある重大な構造が隠されている。それは「超越的な存在(神)なしには人間社会はうまく回っていかない。」ということだ。この部分に関して議論を多少、拡げてみたいと思う。

ここからは今川仁司(たぶん)の贈与論についての著作と、岩井克人の貨幣論に関する文章を思い起こしながら進めていきたい。(いま、手元にないので不正確な個所がでてくるかもしれないけれど、ごめんなさい。)

まず贈与論の中でこの構造:「超越的な存在(神)なしには人間社会はうまく回っていかない。」、が記されていた個所があったように思う。それは、他の集団と交易をおこなうとき、そこには「絶対に贈与・交換が不可能なもの」があり、それを絶対に手渡さないことを担保するために、集団は戦略的に交易をおこなうというものであった。なぜこれは譲渡不可能なのであるか、それはわからない。譲渡不可能という事実があるのみで、この存在は、われわれが言葉で説明できる範疇を超えた、まさに超越的なものであるといえる。これを死守するために集団は譲渡可能なものを交易する、という構造らしいのである。これがいつの時代をはなしているのかはわからないが、人間社会の動きが超越的なものによって成立している、という構造自体は成立している。ここはもうちょっとつめる必要があるように思うが、それはまた今度に回す。

もうひとつ、岩井克人のほうでは、貨幣=神=超越的存在の形をとっている。

その文章は、一国の富として貨幣は勘定に入れてよいのかという議論から入っていたが、これは重商主義を否定したアダム・スミスと衝突するものである。岩井はまず金融資産の考察を始める。たとえば社債だ。社債には借りた側と貸した側がおり、これを一国の富として計上することはできない。なぜなら一方が100万借りたとき、それは同時に他方が100万貸したことを意味し、富の総計としては相殺されてしまうからである。

国債の場合にしてもだが、債権がある限り、借りている側はそれを突き付けられた時には、その分を返済しなければならない。では、日本銀行券、つまりお金の場合はどうであるか。

これもただの紙切れに値段が書かれているだけである。1万円はいくら我らが諭吉先生のお顔を拝謁できるといってもそれ自体の価値はそれほどでない。ただしこれは1万円分の商品と交換可能なのである。そしてその発行元である銀行は、国債の場合のように、借りている側ではない。なぜなら、もし誰かが1万円を銀行に持ち込み返済しろ、といえば、銀行はただ単にその1万円をそのまま返すか、または違う1万円を渡せば済むだけの話だからである。国債の発行にはお金が根拠としてある。つまり国債の信用はきちんとお金のかたちで返済されることが担保されている。しかし、流通しているお金の場合には、その根拠自体もお金に還元されているのである。

担保がその存在自体におかれているお金が、市場の中でかくも流通し、受け入れられているのはいったいどの理由によってであるか。ここに人間社会がうまく進んでいくための構造があてはめられる。つまり、「超越的な存在(貨幣)なしには人間社会はうまく回っていかない。」という構造である。

貨幣に与えれる人々の信頼は「贈与関係」に基づかれている。先の例に挙げたように、国債ならば「ちゃんと返せよ」という心情のもと保有されているが、日本銀行券=お金にかんしては一方的な「贈与」として信頼され、保有されている。国債には保有の理由を他人に聞かれたとしても説明することが出来るが、なぜお金にそれほど信頼を置くのかを問われても整合的な説明はつけられない。

なぜならそれは一方的な「贈与」として、他の言い方をすれば、盲目的に保有されているからである。それは神を盲目的に、一方的に、信じ、人間社会の潤滑油としているように、お金に「絶対の」信頼をおくことで、人間社会、また経済活動への潤滑油としているのである。ここで貨幣=超越的存在=神の構造をとる。岩井はマルクス主義者だからマルクスもおなじこといってんのかな?たぶん。

岩井の達見はこの構造:「超越的な存在(貨幣)なしには人間社会はうまく回っていかない。」、をホッブスの社会契約論にまで拡大して当てはめたところだと僕はおもう。その議論は、またしても真を抉っている。

ホッブスの考え方をきちんと理解しているか自身はないが、便宜上、しんたろう(ぼく)の解釈を記載する。
ホッブスを語る際の一つのキーワードに「万人の万人に対する闘争」がある。ホッブスは人間を動かすダイナミズムをfear「恐怖」と考えており、自己保存を達成するためには他人をも傷つけることを主張している。したって自然状態にある人間は「万人の万人に対する闘争」状況にその身をさらしている。これはこわい。いつどこからだれが襲ってくるとも限らない。そこで惹起されるfearのダイナミズムに従って社会契約が生じるのだ。

こわい(fear)から人々はある主体(王様)に権力を「贈与」する。しかもその権力は「絶対的」なものであることが必要である。王様に、はむかうことは許されない。王様が権力を自由にふるえるということが自身の安全を押し上げることにつながるからだ。揉め事が起きたら、王様がその権力をつかって裁いてくれる。この人々による「贈与」が成立しているおかげで社会がうまく成立するのである。

さきほどまで、一方的な贈与を受け取っていたのは「貨幣」であり「神」であったが、この場合は「権力者(王様)」となり、あの構造:「超越的な存在(貨幣)なしには人間社会はうまく回っていかない。」、が当てはまっている。

どこかで思考停止(一方的な贈与)が無いと人間、いきていけないんだろうな。