「攻撃的な断定口調で話すやつのいうことは信じない方が得策である」と何度も聞かされてきました。なんとなく、そうなんだろうな、と思っていましたが実際どうしてなのかは上手くつかめずに来てしまいました。

ぼくにとって「攻撃的な断定口調で話すやつのいうことは信じない方が得策である」というのは「イギリスから来たお菓子のトーフィというものはコーヒーに良くあう」と同じようなことです。事の次第は了解していても、実感としては理解していないものなのです。

しかしカフェに入ったらたまたまトーフィが置いてあってコーヒーと本当によくあうといった実感を急に得ることがあるように、「攻撃的な断定口調で話すやつのいうことは信じない方が得策である」ということも突如として理解ることがあるものです。

その「突如」はお酒の席でやってきました。しょっちゅう飲んでいるのだからもっと早く「突如」が来てくれてもよかったのですが、その体たらくさに近づくのをためらっていたに違いありません。

とにもかくにも、その「突如」は「攻撃的な断言口調のひととお酒を飲んでいても全然たのしくないな」という形の「実感」となって現れました。ですから「そんな人の言うことを信じない方が得策である」というよりは、攻撃的な断言口調のひととは「距離を置くべきだ」といったほうが正確かもしれません。

ではなぜ不味いお酒になってしまったのかといえば、「攻撃的な断言口調」のひとってファッションでそれをやっているようにしか思えないからです。こちらに本当に納得してもらいたい、だとか、理解ってもらいたいと思っているのなら、もっと違う言葉遣いになるんじゃないのかなと思うことが本当に多いです。

ちょっと妥協する言葉を挟みながらとか、笑うポイントをいれながらだとかいくらでも会話を円滑にする方法はあるはずですが、「攻撃的な断言口調」を採用するひとはそういったことに興味を示しません。なぜでしょう。きっと興味がないんです。そのままですけど。

彼らが気を使っていることは「今自分の言っていることが私の正当性を担保するようにする」ことです。「なにがしはこれこれだ!」と語気をつよくして言えば、相手が「おぉ、このひとは正しいことを言う人だな、えらい人だな」と思うと信じて疑わないのです。

だからこの会話は「一緒に新しい知見を創りだしていきましょう」という双方向なものではなく、「ぼく(わたし)のことは、このように見てください、評価してください」という「ファッション的な言説」であるのです。

大分前ですけど、この「ファッションとしての言葉遣い」をするひとのことを「批評家」として「やなやつだなぁ」ということを書いていましたので、ついでに記しておきます。

(引用はじめ)
なぜ「批評家との楽しいお酒」は想像しにくいのか。

個人的に「批評家との楽しいお酒」というものが想像できません。
ここでいう「批評家」とは、「批評を生業としているひと」のことを言っているのではありません。「他人の言動や作品の瑕疵を言い立てることが自分の優位性を担保する」と考える人のことです。

お酒を飲むというのは「その場を楽しむ」という行為です。「いまはつらいけど、後で振り返ってみたら意外と楽しい思い出になっているはずだから、もう少し頑張ろう」と思うのはお勉強とかではよくありますけど、お酒は違います。お酒というのはそのような「振り返ったら」ではなくて「いま楽しいから」飲むのです。

その「いま、ここ」で楽しもう、と息巻いている時に「批評家」がいると楽しくなくなってしまうんです。もっと有り体に言ってしまえば「くそつまんねぇ」んです。

「~がーって言ってたじゃん。あれ、まちがってるね。俺だったらかくかくしかじかだもん」、「~の作品ってださいよ。だって伝わってこないもん。もっとかくかくしかじかにするべきだったよ。」

驚くのは「俺だったら~」という発言がつづくのは割と少ないケースであるということです。つまり、「ただ批評することで自分が優位であると示すことが出来る」と思っているのです。そういう「攻撃的な言葉」を投げ続けるひととのお酒が楽しいわけがないです。

「批評を垂れ流す」人とのお酒はまずい一方、「解釈を開示する」ひととのお酒って楽しいです。こういう人たちは作品や言動などを「素材」として自分の解釈を開示するわけです。

「~の作品ってあったでしょう。あれってじつはこういうことを言いたかったんじゃないのかな。」とか「おれも同じような感覚があってさ、この前なんて…」など、「親和的な言葉」を投げかけます。

このひととお酒を飲んでいると、「他人の言動・作品から刺激を受けて、新たな解釈を生み出す創造的なプロセス」を目の当たりにすることになります。だから楽しい。「もっと、聞かせてよ」です。

簡潔に言えば「批評家は他人の作品を批判する目的として捉える」のに対して、「解釈を開示するひとは他人の作品を創造的なプロセスへの手段として捉える」わけです。

その態度の違いは言葉づかいに反映されます。「攻撃的」であるか「親和的」であるかです。だから反応する側も「くそつまんねぇ」と「もっと、聞かせてよ」に分かれます。

お酒はおいしいにかぎります。

(引用おわり)

ほんとにそうです。お酒はおいしい方が良い。

ただし「おれのことをこういう男だと思ってくれ」というメッセージを送る行為は誰しもやることで「認知欲求」と呼ばれることもあるみたいです。

考えてみれば「本棚」ってそういった役割を持っています。「自分が何を読んできたか」を遊びにきた友達なんかにみられることを想定して並べたりします。当然、自分が表紙もめくってさえいない難読本を一冊くらいは目立つところに置いてしまうわけです。

ではその「僕はこういうひとだよ!」という強いメッセージが会話のときになると、もしくはお酒の席ではなぜ嫌われてしまうのでしょうか。

有り体に言ってしまえば会話は二人以上で行うからです。だから一方の人がただ「自分のおもう自分」を披露するだけなら、聞き手は「ぼくでなくてもいいんじゃない。ひとりでおやりなさい。」なんて思ってしまいます。

先ほど記した「解釈人」になることが「楽しいお酒」のみそではないか。解釈人は相手を必要としています。言っている内容だけでなくその口ぶりや雰囲気から伝わるメッセージのことを「メタ=メッセージ」といいますが、解釈人のメタ=メッセージは「あなたに聞いてほしいことがある」です。批評家の「俺を凄いと思ってくれ」とは大違いです。

聞き手はそのメタ=メッセージを敏感に感じ取ります。だから批評家とのお酒はまずくて、解釈人とのお酒はおいしいのでしょう。

解釈人のなかでも特に凄い能力を持つ人がいます。それは「思考の次数を一つ上げてしまうひと」です。相手との会話で対立したときに「どちらが正しいか」という方向を放棄し、「なぜ僕と君にはこんな違いがあるのか」と知性を働かせられる人です。

相手に「お前は間違っている!」と言われても、「ぐぬぬ、そんな風に考えたことなかったな。俺はあっていると思っていた。なんで反省しないほどそれを信じていたのかな。君と何の違いがあって考え方自体にも違いが生まれてるのだろうか。不思議だねぇ。どう思う?」というのは次数をひとつ上げてしまってます。

「どちらが正当か」の「対論(ディベート)」でなしに「どこまでが一緒でどこがちがうのか、それはなぜだろう」という「対話(ダイアローグ)」への転換です。
こうなると二人の間に創造的なプロセスが生まれていきます。そのメタ=メッセージは「この会話には君が必要だ」です。

前回の贈与経済を紹介したときにも言いましたがこのような投げかけを「まず、自分から」できるひとってほんとにえらいですよね。でも、やっぱりなかなか難しいです。

しんたろう

追記)
バルタザーク・グラシアンのことばに素晴らしいものがあったので共有させてください。

「まわりを困らせる人とつきあわない」

「ことあるごとに人を不快にさせてばかりいて、自分だけでなく周囲の人まで狼狽させる人は多い。こういう人と無縁でいるのは難しい。どこにでもいるよくあるタイプだからだ。何かにつけ落ち度を見つけ、分からず屋で、さんざん人に迷惑をかけないうちは日も暮れない。なかでもたちが悪いのは、自分は何一つまともにできないのに、人の努力をばかにして悪口を言うことでせいせいしているタイプだ。孤独に暮らしているのはたぶんそのせいなのだろう。」
(『バルタザーク・グラシアンの賢人の知恵』p.23)

批評家でなく解釈を開示する、そんなおとなになりたいね。
経済学をしばらく勉強していると、「贈与論」とか「贈与経済」とよばれるものに行き当たるんですけど、これ、とってもおもしろいんです。

「贈与」ってつまり「贈り物をする」ってことなんですけど、当然ここでは「金銭の交換」は行われません。当然ですよね。もしお金を払わないといけないんだったら、「贈り物」になりませんもんね。

人類ってこの「贈与」による経済活動を結構採用してきたんです(経済人類学と呼ばれる分野で研究されています)。いまでもある部族ではこの「贈与経済」が働いています。

例えば、あるひとが「同じ共同体の仲間」に物を贈ります。するとこの二人の間にコミュニケーションが流れ始めるんです。「ありがとう」と思った受け手は、こんどは「お返し」を贈ります。このとき、「もらったものよりも少しだけ大事な物」が「お返し」として選ばれます。すると今度はその「お返しに対するお返し」が贈られます。これがずっと続いていくんです。そしてあるところまでいくと、「もう、これ以上だいじなものをお返しできない」というところに行き着きます。そのとき彼らは、「相手への感謝の気持ちがどれだけおおきいか」を示すために、「仕事に必要な小舟を壊す」や「自分の家を壊す」をしたりします。そのぐらい「お返ししなきゃ」という気持ちが強いってことなんです。

この「お返ししなきゃ」という気持ちを「反対給付義務」と呼びます。そういう感覚ってぼくらにもありますよね。「うげ、こんないいもんもらっちゃった。こんどお返ししなきゃ」っていうあれです。

なんで「お返ししなきゃ」という「反対給付義務」が生じるのでしょうか。『贈与論』をかいたモースは「贈られた物に潜む力」という言葉をつかって説明したんだそうです。つまり、「贈り物」はおおっぴらにいってしまえば、「ただの物」です。でもその中には「良く分からない力」が潜んでいるので、この「物」を受け取った時に「返さなきゃ」と思うんです。

マオリ族は、この「良く分からない力」を「ハウ」とよび、その「ハウ」が潜むための物を「タオンガ」と呼びます。モースはこの部分を以下のように詳しく紹介してくれています。

「私はハウについてお話しします。ハウは吹いている風ではありません。仮にあなたがある品物(タオンガ)を所有していて、それを私にくれたとしましょう。あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません。そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。そしてその人はそのお返し(ウトゥ)として、何らかの品(タオンガ)を私にくれます。ところで、彼が私にくれたタオンガは、私が始めにあなたから貰い、次いで彼に与えた(あなたのところからきた)タオンガによって私が(彼から)受け取ったタオンガを、私はあなたにお返ししなければなりません。私としましては、これらのタオンガが望ましいものであっても、望ましくないものであっても、それをしまっておくのは正しいとは言えません。私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。この二つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことが起こり、死ぬことになるでしょう。」(『贈与論』 マルセル・モース 筑摩書房 p.34)

おもしろいですよね。でも、ちょっと変だと思いませんか。だってせっかく「タオンガ」をもらったのに、「第三者」にあげちゃうんですよ。「おかえししなきゃ」って思うくらいの物なのに、簡単に他人にあげてしまう。やっぱり変です。

僕は「ハウっていうのは誰でも気づくことが出来るわけではないのかもしれない」と考えているんです。だから、せっかくもらったものでも「これ、やるよ」なんて言って渡しちゃうこともある。でもそれが続いていくと、誰かが「うげ、こんないいもの…」と感じて反対給付義務が生じる。そうすると「これ、やるよ」と言ったひとに、「お返し」が届きます。引用では「ウトュ」と呼ばれているものですね。それが届くんです。

するとこんどは「うげ、こんなお返しもらっちゃった。あれってそんなにいいもんだったのね。」となります。つまり、「自分が渡した貰い物の価値は事後的にわかる」ということです。事前に分かっているのでなくて、お返しをみて「うげ」となるのです。

このお返しは元々もらったものですから、「これをくれたひとに感謝しなきゃ」という強い反対給付義務が生じる。だから「この二つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことが起こり、死ぬことになるでしょう。」という気持ちになる。

「お返しをもらったからお返しをする」ってなんだか凄く耳触りがいいですよね。なんだかものすごく良い関係のような気がします。これって「お返ししなきゃ」と誰かが思うところから始まるんです。

そういうことが得意なひとっています。たいしたことない物をあげたときに「え、私に!?ありがとう」て言えるひとですね。こちらとしてはそんな喜ぶ姿をみて「わ、そんなにいいものなのか」って思います。

これは別に「物」に限ったことではないです。「言葉」でもそうです。実際の生活ではこちらの方が多いんじゃないでしょうか。何気ない言葉を投げかけて、思いもかけなかった「感謝のことば」が返答としてかえってくる。こちらが投げかけた言葉を、「すごい価値のある言葉だ」と気づけるひとがいるんです。

だからこの「ハウ」を最初に気づける人って凄い人です。こういう人のおかげで「よいコミュニケーション」が始まる。

では、「ハウ」に気づいたひとが「お返ししたい気持ちはあるのだけれど、本人に直接にはお返しできない」ときにはどうするでしょうか。

これに言及した人はたしかレヴィ・ストロースだったと思います。例えば、お嫁さんです。お嫁さんをお父様から贈られる(今でもお父さんに土下座する光景はよく見られますね)。「贈与」です。これに対して「お返し」をすべきなんですけど、「大事なお嫁さんに見合うようなお返し」なんてなかなかないです。まさか「お嫁さん」をそのままお返しするわけにはいきません。「お父様、離婚を前提に結婚させてください」なんてことは許されません。

だからどうするかというと、直接の返礼でなくちがう形になってその「ハウ」は移動します。今回でいえば「自分の娘を他の男に贈与する」という形をとります。

小津安二郎の映画にこのことを表している場面があるそうです。あるひとが「娘を他の男にやるのっていやじゃない?」というと「しょうがないよ、結局自分だってお嫁さんをもらったんだもの」。

こうやって「ハウ」に気づいたひとのおかげさまで「よいコミュニケーション」がつながっていくんだとおもいます。

ある動画がこのことを表現してくれているように思うので紹介します。是非みてください。なんだか良い映像だとおもいませんか。



「きっと誰かがハウに気づいてくれる」のだから、「贈り物」の始点を自分にしてしまうのが一番です。とりあえず「良い言葉」とか「ちょっとした贈り物」を投げかける。そうすると連鎖反応が始まって、どこかでだれかが「これ、お返し!」と言います。そうすると事後的ではあるけれど「おれ、いいことしたんだなぁ」と思えるし、きっとそれは幸福感を伴うんじゃないでしょうか。

もう一つ紹介したいものは「そんなこと」を言っている曲です。それはマッキーの『僕が一番欲しかったもの』という曲ですけど、聴いてみてください。これも良いですよ。



こんな「贈与」ですが一見簡単そうに見えても、始点となるべく実践するのは意外とむずかしいです。それは「贈与」の性質が「お返しを求めない」ということだからです。「贈与とは返礼なき贈与であって、返礼を期待する贈与は用語矛盾であり、実質的には贈与ではない。」だからです。

「これあげたら、お返しで~もらえるからあげとこう」というのは「贈与」ではないということです。なにかがもらえるわけでもないし、褒められることが期待されている場合でもない時に、「でも、あげよう」というのが「贈与」です。

期待しないけど、事後的に、つまり後になってから振り返ってみるとそこに「幸福」があったりする。「贈与」ってそういうものなんです。日本人って昔からこんなことは知ってたんですよね。だって「情けはひとのためならず」って中学の時に先生が教えてくれました。

それでは、よい日々を!

しんたろう
「おとなと子どもの境目は奈辺にあるのか」。これは僕ら大学生にとって非常に重要な問題です。なぜならぼくらは「おとなとも子どもともいえないあいまいな状態」にいるからです。もはや子どもと呼ばれてすんなりと受け入れられるほどナイーブではないのと同時に、おとなと見なされることに対しても強い違和感を覚えているのです。

つまり、「子ども扱いするんじゃねぇ、でもおとな扱いもしないでください」です。そんなぼくらにとって、「いずれおとなにならなきゃいけないのは分かっているのだけれど、一体どうなったら『おとな』になるのだろう」という問いに答えることは喫緊の問題なのです。

この問いに対して僕の単純な頭は、「子どもに出来ないことができるひとがおとななんだろうな」と考えます。つまり「子どもでない=おとな」という図式を思い浮かべます。当然、「子どもにはできなくておとなには出来ることってなんだろう」という疑問が湧いてきますが、これに対する解答としてはとりあえず二つのことを考えます。それは「許せないことを許すこと」と「『本当のこと』を脇に置くこと」です。

では、なぜ「許せないことを許すこと」をおとなの要件としたのかといえば、「許せることを許すこと」は子どもにもできることで、「許せないことを許すこと」はおとなにしか出来ないことだからです。

子どもが「許す」をするときは納得したときに限られています。相手に嫌なことをされたとしても、それが「謝罪をされれば許せるレベルの嫌なこと」のときには、相手が謝ってくれれさえすれば「まぁ、いっか」です。でも「謝罪では到底許せないレベルの嫌なこと」に対しては「まぁ、いっか」ではありません。「許さねぇぞ」です。「『謝罪では到底許せないこと』に関して謝られた時に、許すことが出来ない」といっているのですから当たり前です。

この「子どもにできないこと」をできるひとが「おとな」なんだろうな、そういう風に考えるわけです。小林秀雄は合理主義のことを「おとなか子どもか関係なく、万人に理解できることだ」として、「歳をとったときに子どもでも理解できることを言っていたら、せっかく歳をとった甲斐がないじゃないか」と指摘しました。つまり「『子どもには分からないこと』がわかる=おとな、だろ」です。ここでは「『子どもには許せない』を許せる=おとな、だろ」ですが、要は同じことです。

「許せないことを許す」というのはアクロバティックな行為です。「許せないこと」にも色々あるはずですが、「相手にも明らかに瑕疵があるのにも関わらず、こちらに一方的にその非を言い立てられる」は「許せないこと」のひとつです。「おまえのせいで、こんなことになっちまっただろ」と言われたときに、「おまえこそ悪いだろ」と言いたくなる時のことです。それと同時に「許せねぇ」と言いたくなる時のことです。

子どもは「許せないこと」は許せません。だから「おまえこそ悪いだろ」を言い返します。「許す」ができないから「言い返す」をします。「許せないこと」を許せるひとはおとなとされます。「許す」ができるから「言い返す」をしません。なぜおとなは「許す」ができるのかは僕にはよく分かりません。「目の前にいるひとと険悪にならない」ということを第一に考えているのではないかと思いもしますが、おそらくそんなところでしょう。

さきほど、「子どもにはできなくておとなにはできることってなんだろう」に対して、「許せないことを許すこと」と「『本当のこと』を脇に置く」の二つを考えましたが、実際はこの二つは一つのことで、大きな違いはないのかもしれません。

では「『本当のこと』を脇に置く」とはどういうことでしょうか。

まず、「『本当のこと』を脇に置く」を子どもはできません。サリンジャーという作家が書いた本に"The Catcher in the Rye"があります。『ライ麦畑でつかまえて』です。これはホールデン・コールフィールドという少年が「子どもからおとなへと成長する」物語でもあるのですが、ホールデンは「『本当のこと』を脇に置く」が出来ません。つまり「こども」です。

この物語でもっとも使われている単語は"phony"じゃないかと僕は思います。つまり「いんちき」という言葉です。友人でも、バーのピアニストでも、自分の先生でも、相手が本当のことを言っていなかったりおこなっていないと感じたときに、ホールデンは「いんちき」を言います。そして嫌気をさして学校から、バーから、先生の家から抜け出して行きます。ホールデンは「『本当のこと』を脇に置く」ができないので、「子ども」なのです。

僕は「子どもには出来ないことを出来るひとがおとななんだろうな」と考えていますから、今回も「『本当のことを脇に置く』が出来るのがおとななんだろうな」と考えます。とっても単純ですが、それしかとっかかりがないのでしょうがありません。

「『本当のこと』を脇に置く」の典型的なものは「ユーモアを受け入れる」じゃないかとおもいます。外山滋比古さんによれば「ユーモアはおとなのもの」だそうです。相手と会話をしているときにはかならず何かしらの形で衝突がおきます。その言葉と言葉の衝突を避けるために、「立体交差」のように機能する「ユーモア」が使われます。お互いが「真実だと信じているもの」を言い立てれば衝突が大きくなるので「本当のことを脇に置く」のです。これはどうもおとなにしかできない芸当みたいなのです。つまり、「『本当のことを脇に置く』ができるのがおとな」だということです。

さきほどぼくは、おとなの要件とした「許せないことを許すこと」と「『本当のこと』を脇に置く」の二つは実際は一つのことで大きな違いはないのかもしれません、といったことを言いましたが、それは「どちらもイマ・ココにいる隣人との良好な関係を意識しているから」ということが背後にあるように思います。

「いま・ここ」というのは自分の半径1m以内のはなしです。「この範囲のはなしを皆はいちばん知りたいんじゃないかな」と思っていますが、「そうでもないかな」と時々おもったりもします。実際には、「もっと大きな枠組みの話」の方に興味がありそうに見えるときがあるからです。

最近では隣国との摩擦が顕著に増加しているみたいですが、ぼくが気にするのはそういった「大きな枠組みの話」よりも、「キャンパスにいる留学生とどうしたら仲良くなれるのかな」といった類の「いま・ここバナシ」です。しかし、さまざまな情報にあたってみると「大きな枠組みの話」の方が圧倒的に多いのに僕はすこしおどろきます。

もちろん「いま・ここバナシ」を気にかけているひとは実はたくさんいて、そういうひとがたまたま情報発信をしていないだけかもしれません。それにしても、もう少し半径1m以内のはなしが出回ってもいいのではないか。すくなくとも僕はそう思います。

「ゆるさねぇ」と「本当はこうなんだ」という言説もいいのですけれど、息抜きをしたいときにそんな「ホールデン・コールフィールドみたいなひと」と会話をしたい、そんな風にはぼくは思いません。

ここまで「おとなの要件」を単純に考えてみましたけれど、実際にはまだ、「よくわかりません」。それはきっとまだ僕がおとなでなくて「大人とも子どもともいえないあいまいな存在」だからです。「この『わからない』をわかる時」が来るかもしれないし、来ないかもしれません。でも「そんな日がくるような気がする」とも思います。この「あいまいな存在」の特権をもうしばらく謳歌するのがいいのかもしれません。

しんたろう