昨年末に映画『レ・ミゼラブル』をみて来ました。映画が終わると立ち上がって拍手をするひとがいたり、隣で号泣しているひともいました。友人たちも僕と同様、ほとんどの人が感動したみたいです。今回はそれについて雑感をすこし(検証なしに)書いてみたいと思います。

この映画で僕が読み取ったテーマは「信仰心v.s.理性」の構図でした。このふたつは相反することが多いですよね。教会は「地球が宇宙の中心だ」と信じていて、それを否定したガリレオを裁判にかけたのは有名だし、「神様は世界の始まりから生き物をその形で創った」と聖書には書いてありますけど、「理性」はそのようには教えずに「進化論」を教えます。当然このふたつは仲が悪くなりやすいです。

『レ・ミゼラブル』が書かれた頃って「科学の進歩」が激しかった時代で、どんどん新しい発見や方法論が出て来たりしました。そうすると、必然的にひとびとの信仰心が薄れていく時代でもあります。だって、そうですよね。地動説と天動説の両方を同時に肯定することって難しいです。しかもヨーロッパのひとびとはきっと「真実はひとつだ」というのをそれまでの一神教的世界観で身につけています。「真実」を表す 'Truth' という単語にはかならず 'The' がつけられるんです。というのも「真実はひとつだから」です。

だから科学が発達してくる当時のフランスでは人々は信仰を薄めていくしかなかった。そもそも映画で描かれている革命も、「いままで盲目的に信仰していた王の権力」にたいする異議申し立てじゃないですか。それはきっと「我々はすでに理性で動いていく」という流れのなかでの運動だったんじゃないかと思うんです。当時は神を切り捨てその代わりに「理性教」なるものが置かれたのです。

僕は個人的に思うんですけど、『レ・ミゼラブル』を書いたユーゴーってこの「異議申し立てに対する異議申し立て』を書いたんじゃないかって思うんです。革命を否定したという意味では全然なくて、「理性も大事だけどさ、人を動かすものってやっぱり信仰じゃない?やっぱり信仰って大事じゃない?」みたいな。

だってジャンバルジャンって前向きに進んでいくけど全然合理的じゃないんです。このひとは映画の最初で「信仰のひとです」って観客に教えられます。みたひとならわかると思いますけど、ジャンバルジャンは看守人に「そこの旗をもってこい!」って言われて重そうなその旗を肩に担いで運びます。このシーンって明らかにキリストを示してましたよね。キリストは十字架にかけられて死にますけどその十字架を運んだのはキリスト自身でした。この場合、運ばされたといった方が正しいですけど。だからこのシーンで「あぁ、このひとはこの映画では『いいもん』の役割だな」と思うのと同時に、看守は「悪いもん」の役割だと分かります。

「信仰心v.s.理性」の構図のなかでジャンバルジャンは「信仰心」を代表しているのだから、その看守は「理性」の代表者です。ラッセルクロウ演じるこの看守(ほんとは警官かな?)がどうやって理性を代表しているかというと「法の厳守」です。法律って近代的な統治機構で宗教よりずっと合理的です。近代以前はどうしてたかというと教会法が定められていたんですね。でも近代法によってとって代わられた。

一度は司教さんによって信仰心を得たジャンバルジャンは自由になりました。市長さんにまで出世してしまいます。でも守衛としてやってきたラッセルクロウに「あの法を破ったジャンバルジャン」だと気づかれてしまいます。人を助けるときにまたあの「キリストの格好」をしてしまってバレるのです。せっかく自由になれた「ジャンバルジャン(信仰心)」もここでまた「理性」と対立することになるのです。

でもこの対決においてジャンバルジャンはまったく合理的じゃないんです。何度か看守を殺すチャンスがありました。でも何故か生かしてしまう。殺せば安寧な生活が100%保障されるのにです。そしてまた災難に遭う。ちょっとバカです。僕なんて「早く殺っちまえ!」とか思ってました。でも全然ころしてくれない。不利な対決です。

でも、ユーゴーは最後に理性を負かして信仰心に勝利を与えるんです。理性の代表者であるラッセルクロウは「おれは正しかったのか」みたいなことを歌って、川に身を投げ捨てるという悲惨な最期を迎えました。ここで「理性も大事だけどさ、人を動かすものってやっぱり信仰じゃない?やっぱり信仰って大事じゃない?」というメッセージを僕は聞き取ったのです(たぶん本当のメッセージは違うものですけど、色々な解釈を許すのが傑作の条件です)。

感動することを「こころが動かされる」って表現しますけど、僕はこれ、比喩じゃないと最近思ってます。素晴らしい作品をみると、本当に心が自分の体から離れたところに動かされる。でもそれを信じるのって合理的じゃないですよね。そんなことあるわけがありません。でもぼくらは「心が動かされた」と思ってしまう。この矛盾を解消するのは行動しかありません。向こう側にいってしまった心のところまで体を動かすしかない。作品を通じてみた「なりたい自分」とかがいる場所まで行動させるしかない。もしくは向こうに行ってしまった心をこちら側まで引き戻す。つまり味わった感動をなかったものにしてしまう。「どうせただのお話だからさ」なんて言っちゃって。

人を動かすものってそういった感動だと思うんですけど、「なんで感動するのか」ってたいていは合理的でない信仰によってませんか。この映画をみて感動した日本人ならちょっと分かりますよね。おフランスの19世紀の自分とは何も関係ない話にスタンディングオベーションしたり号泣したりするんですもの。でもその感動を言葉で表現するのって難しいですよね。言葉で表現できるのって合理的なものだからじゃないかなと僕なんかは思います。でも(この「でも」は非常に大切なんですが)、「言葉じゃ説明できないけど感動したのは絶対に正しい、まちがいない!」って思います。もはや信仰です。ですけどいろんな人の心を動かし行動を引き起こすんじゃないのかなぁ。

しんたろう
前回、TEDxカンファレンスでの岩田さんのお話に触れました。大企業で新入社員として働き始めた時に、「社長目指して頑張ります!」といったせいで上司に小言を言われたというお話です。なぜ岩田さんがそのようなことを言ったのかというと、「実現できるかどうかに関わらず社長を目指して働く働き方と、目指さないで働く働き方では違うとおもった」からです。

これ、次数をひとつあげた思考法なんじゃないかと思うんです。つまり「社長を目指す」というとあたかもそれが目的のように聞こえますけど実際は「自分が成長すること」が目的で、「社長を目指す」のはその目的を実現するための手段に過ぎないのではないかと感じました。一般的には目的(end)とされがちなものを手段(way)にして一つ次数のおおきい目的を設定する。これを聞いたとき、ラジオを聞いていて「これは金言だなぁ」と思ったものが脳裏をかすめました。それは次のようなものでした。

「とりあえずの目的は設定していいが、その目的は実は手段に過ぎない。手段の方が実は目的なんだ。」(podcast 『学問のススメ』柴田元幸 51:00~)

これを岩田さんのお話と比べるならば、「社長になること」は「とりあえずの目的」であってそれは実は手段に過ぎない。その目的のために「じゃぁどうやって働こうか、と考えること」の手段の方が実は目的なんだ、ということですね。

この思考法って「つらいことに対面したとき」にもすごい役立つんです。モラトリアム期と呼ばれる学生だってつらいと思う時があります。就職活動だったり失恋だったりサークル・団体活動だったり将来へのおおきな不安であったり、様々です。こういった時に「今ある苦難を解決すること」を一義的な目標に設定すると大変です。そんな時は次数を上げてしまえばいいんです。「 今ある苦難を解決すること」を目的ではなくて「とりあえずの目的」にしてしまう。それを手段として、くるめとってしまえばいいんです。

じゃあ、なんのための手段なのかというのは様々あるでしょうけど、「苦難を乗り越えた自分と出会うこと」ってどうでしょう。目的はそういった「苦難を乗り越えた自分と出会うこと」であって、じゃあそれを上手くやるためにとりあえず「 今ある苦難を解決すること」を仮の目的にしようと、次数を一つ上げた形で思考してしまう。その方が生きる力が削がれることが少ないんじゃないでしょうか。

例えば、「A社に入ること」を一義的な目的とするのではなくてそれをとりあえずの目標にすることで、そのためのタイムスケジューリングの仕方だったり、自分の希望との向き合い方だったり、自分の思いを正しく他人に伝える力の向上だったりを頑張ったりします。その「とりあえずの目標」を追いかけることで「スケジューリング能力や自己内対話やコミュニケーション能力が向上した自分」と出会える。それが実は目的で、「A社に入ること」は実は手段だったりするわけです。「A社に入ること」ばかりに気を取られているとそれがすべてであるかのように勘違いしてしまいます。Dead or Aliveの世界ですね。それって相当つらいんじゃないかと思います。だからさきの思考法をした方が生きる力が削がれないんじゃないかと思います。

さきほど岩田さんのお話を聞いている時に、ラジオで流れていた柴田さんの言葉を思い出したといいました。それもじつは「そういうことに興味があって色々と考えをめぐらしていたから」なんですけど、それをメモしたものの横に同じように「目的と手段をはき違えない方が良いのではないか」といった文章があったので載せておきます。内田樹さんによるものです。

(引用はじめ)

僕たちはうっかりと「ビジネスで成功するためには、市民的成熟が必要である」というふうに考えている。でも、これ、ほんとうは話が逆なんじゃないかと僕は思うんです。「市民的成熟を促すために、『ビジネスで成功することはたいせつだ』というフィクションをみんなで信じているふりをしている」というのがほんとうなんじゃないか、と。人間的活動の目的は、人間の成熟を促し、人間の共同的な関係をしっかりと基礎づけることであって、そのための技術的な「迂回」として、「じゃあさ、ひとつ『ものをぐるぐる回す』というゲームをみんなでやらないか」という話になった、と。僕はそれがことの本来の順序ではないかと思うのであります。 (内田樹 『呪いの時代』 新潮社 p.151)

(引用おわり)

内田さんは一義的な目的を「市民的成熟」としていますね。そしてとりあえずの目的(仮の目的みたいなものです)をこの場合では「ビジネス」としている。ことの次第は同じような気がします。

最後に、「つらいことと対面した時にどうすればよいか」という問いに対する僕のさしあたっての解答はこうです。まずつらいことを手段であると設定する。そしてその目的は「苦難を乗り越えた、成長した自分と出会うこと」です。そんな自分を想像してわくわくしながら「とりあえずの目的」にとりかかる。そんなところです。

またTEDxの話に戻りますが、もう一人紹介したスピーカーに高桑さんがいました。高桑さんは義足をつけた姿を「苦しくて嫌な姿の自分ではなくて、苦しくて嫌なことを乗り越えてきた自分の姿で、肯定できる姿」であるとおっしゃられました。高桑さんはつらいことを経験している最中にはいなかった「成長した自分」と出会うことができたのです。僕らもきっと出会えるはずなんです。だから、頑張ってしまいましょう。

しんたろう
先日、慶応大学のSFCで開かれたTEDxというイベントに参加してきました。様々な分野で活躍されている方々が15分ほどのスピーチやプレゼンを通して素晴らしい経験や情報を共有してくれるというものです。今回のテーマは “Think Like a Child” 。期待通り面白い話しばかりでしたのでちょっとご報告します。

向田麻衣さんはネパールの女性の尊厳と自信を「化粧」を通して取り戻す “Coffret Project” という活動をされています。プレゼンの始まりには女性の笑い声が流されました。その女性は親に売春宿へ引き渡され日々の肉体労働のせいか精神的に非常に痛めつけられていたそうです。目の焦点もあわず、じっとしているとヨダレをだらだらとたらしてしまう。しかし縁あってその女性が向田さんのワークショップに参加し、お化粧を施してあげると周りにいた参加者たちがみんな「きれい、きれい」と声をかけました。そのときに彼女の目の中にこころが舞い戻ってきたかのようにみえたそうです。そして冒頭の本当に嬉しそうな笑い声とともに「うれしい。また来てね。」と言ったくれたのだそうです。

また震災で心労が絶えなかった向田さんのおばあちゃんにも化粧をしてあげて、その時におばあちゃんが鏡をのぞいている笑顔もみせていただきました。女性にとって「化粧」がそのひとの心につよい影響をもっていることに驚きました。僕は男ですからそのような感覚は掴みにくいですが、お化粧は自分を勇気づけるための手段であって誰にでもそのようなものはあるはずだという主旨のことを仰っていてなるほどなぁと感心すると同時に、自分にとっての「化粧」を意識して考えてみようと思いました。

イベンターの方は向田さんを紹介する時に「静かそうだけれど奥に強い気持ちを持っている方」だと言っていましたが、まさにそのとおりの方でした。というのも「くやしいこと」として向田さんがあげていたのは「援助結果の計測しやすいところにお金が回っていて、それ以外のところは後回しにされてしまう」ということでした。援助活動によって、いくらいくらの経済効果があっただとか、何人のひとが~をできるようになったという「目に見えやすい活動」に支援金がまわり、化粧による「女性の尊厳の復活」という目に見えにくいものは後回しにされる傾向にあるということでした。「でも私はそちらと関わっていきたい」と言う向田さんからは確かな強いものを感じました。

小檜山賢二さんは日常的な環境の中に存在する小さな生物のことをさす「マイクロプレゼンス」を百枚以上の写真を合成してみせて、人間と自然の関係に新しい認識を与えようと活動している方です。お話がとても面白く、次々とあらわれる小さい昆虫の写真もみたことがないものばかりで驚きでした。でもその虫たちはSFCのキャンパス内に生息しているものなのだそうです。一緒にいった友人は虫が嫌いでスライドを殆どみれなかったようですが…。

小檜山さんが “Think Like a Child” というテーマと関連づけてお話しされた部分は「子どもは自然と人口の区別をつけない」ということでした。世界には本当に数多くの生物が棲息し人類はその一部でしかないのにも関わらず、僕らは自分たちのものの見方に固執してしまっている。これを変えるための「マイクロプレゼンス」の提示なのだと思いました。

僕も日吉に通っていた頃、電車から外を眺めていてふと同じようなことを思ったことがあります。窓の外の世界に人間が手を付けていない場所は殆どありませんでした。「世界は人工物だらけだな」と思ったのです。でも、働くことによって自然を改変するという意味ではアリだって同じことをしています。巣をつくることで今までとは違う自然のかたちを生み出しているからです。でも僕らはアリの巣を「自然」とよび、「アリ工物」とは呼びません。僕らが家をつくったら「自然」と呼ばずに「人工物」と言うのにも関わらずです。僕らの自分勝手な視点を覆す力をもつ「マイクロプレゼンス」。とっても面白かったです。

岩田松雄さんは輝かしいキャリアの持ち主で現在は日本でリーダーシップを持つ人材を育成するために活動をされている方です。岩田さんは新入社員として日産自動車に入ったそうです。そして先輩達の前で一言自己紹介を兼ねた発言を求められたとき、「社長を目指して頑張ります」といって後で直属の先輩に小言を頂いたのだとか。「社長になれるなれないと関わらず、目指して働く働き方と、目指さないで働く働き方では違うと思ったんです」と仰っていて素晴らしい考え方だなぁとおもいました。

その後UCLAでビジネススクールに通った際には「様々な価値観があっていいんだ」と実感できたそうです。僕も人の話を聞いたり本を読んだりして「様々な価値観がある」ことは理解っています。でも「様々な価値観があって(いいんだ)」と実感した経験はまだないのでその時がとっても楽しみです。20代でなんとかその時が来るようにしたいです。

「あせらなくていい」と岩田さんは諭してくれます。例えば企業をする学生も多いですが、たまに散見される「企業することそのもの」を重視しているひとはあせりすぎているとお考えでした。企業は目的じゃなくて手段なんだよ、ということです。では岩田さんのお考えになる目的はなにかというと、「企業は世の中を良くするために存在している」ということです。

岩田さんはビジネスを学んでいる時でも長期休暇では東洋哲学などを読んでいたそうです。それは人の心を動かすにはそういったことも必要であるという感覚からだと仰っていたと思います(たしか…)。ビジネススクールで成功への方法などを学んでいてもその人心を動かすことにも注意を払っていたのだそうです。向田さんの「計測しやすいものよりも人の尊厳に関わること」と少し似ているなと思いました。だからなのかは分かりませんが岩田さんのお話はものすごく自然に受け入れることができました。すごい人です。

高桑早生さんはSFCに在籍中の学生さんです。13才から義足の生活にはいりましたが陸上競技と出会い、ロンドンパラリンピックにも出場されました。高桑さんは「人生のスパイス」について語ってくれました。スパイスってそれだけだと苦いし美味しくない。でも他の食材と一緒に調理すると何倍にも何十倍にもおいしくなる。それは人生においても同じだったと。つまり様々な辛い経験があってそれを乗り越えてきて今の私がいる。そして苦難を乗り越えてきた今の私は肯定できる存在だということです。高桑さんの経験からでてきた言葉でとっても重みがありました。義足を装着した姿も見せて頂きました。そしてその姿ですっと立ち、その姿は苦しくて嫌な姿なのではなく、苦しくて嫌なことを経験し乗り越えてきた肯定できる姿であることを聞いて、「うぉー、かっけぇ」と思いました。高桑さんのあとはその義足をデザインした山中俊治さんがスピーカーでした。ライブで作品ができていく過程をみせてくれましたが、これは言葉に表せない感動でしたからお伝えできません。でも、ほんとうにすごかったんです。

今回、さまざまな素晴らしいスピーチを聞かせていただいて、いままで自分が何となく考えていたことが心のなかでグラグラと揺り動かされてすっとお腹の中に入ったり、新しい考えるヒントを与えてもらえました。あと、すごい人の共通点ってポジティヴってことですね。「世の中に不可能なことはなにもない!」といっている方もいました。自己肯定力、ぼくも日々養っております。あ~、たのしかった。

しんたろう