GAYOKUブログ、再開いたしました。今後ともどうぞ、よろしくお願いします。目標はしんたろうとのぶてるが一回ずつの月二回更新であります。

今回は私、しんたろうが、リハビリを兼ねて、短めに発信します。

表題の「ぼく(ら)」とは、ぼくとのぶてるのことではなく、「僕ら全員」のことです。社会の構成員ともいえるかもしれません。

「ブラック企業」と呼ばれるものを非難する時に「ぼく(ら)にはまだ覚悟ができていない」。そう思ったのです。

経営者のなかには、会社のためなら従業員をいくらでもこき使う、そういった人たちが少なからずいます。契約以上の時間を拘束したり、にも関わらず残業代を支払わなかったり、それで良いと思ってるひとたちです。

そういった人たちがトップにいる会社の労働条件は当然過酷になっていきます。時には従業員が命を落としたりすることもあるそうです。僕らはこういった会社を「ブラック企業」と名付けて非難します。特に外食産業には「ブラック企業」が多いと言われています。

実は僕も「こういった企業は無くなった方がいい」と思っています。だって、そうでしょう。生活するために働いているのに、働いた結果生活が出来なくなるなんてどう考えても酷すぎる。

だから心の底から「なくなってしまえ!」と思っているんです。でも、です。でも、僕は280円均一の居酒屋に行きます。そこの従業員が劣悪な条件で働いていることを知っているはずなのに、忘れたふりをしてお酒を飲みます。2~3杯のんだらフリではなく本当に忘れてしまっている。

本当に無くしたいのならそういった「ブラック企業」のサービスを拒否していけば良いはずなんですけど、真っ向から戦う覚悟ができていないんです。たぶん本心では「ブラック企業なんか無くなってしかるべきだ!でも飲むときはなるべく安いとこで飲もうな!」なんです。「お前そんなこといってるけど、安いとこで飲んでんじゃん」といわれたら僕はきっとぐうの音も出ない。

でも言い訳じゃないですけど、そういった感覚のひとって僕だけじゃないです。これほど社会的に「ブラック企業」がやり玉にあげられているのに、どうして彼らはつぶれていかないんでしょう。経済学部でたいして勉強していなかった僕でも分かります。それは「需要があるから」です。

「需要がある」とは「ある価格で売られているモノ・サービスがあって、それを欲しがっている人たちがいる」ということです(よね?)。逆に「需要が無い」とは「ある価格で売られているモノ・サービスがあって、それを欲しがっている人たちがいない」ということです(!)。

空気を1000ccあたり100円で売ってる人がいたとして誰が好んでそれを買いますか(「富士山の空気」が缶詰に詰められていてそれは売れているみたいですが…)。口を開けば手に入る(変な表現ですね…)空気にわざわざお金を出す人はいません。そんなKYな企業があったとしたらすぐに倒産します。

でも、290円の居酒屋で出されるお酒には290円だすんです。なぜならその値段を僕らが受け容れているから。「100円の空気」は許せないけど、「290円のビール」は許せる。「700円のビール」は許せないけど、「290円のビール」は許せる。僕らの多くは、おそらく、そう考えている。それが市場では「需要」という形で表現されています。

だから「空気屋さん」はつぶれるけど、「ブラックな外食産業」はつぶれていません。従業員たちの犠牲によって享受できるその低価格を受け容れている。こちらの出費を抑えるためにあちらの我慢をそのままにしているんです。その人たちと一緒に団結して腹黒い経営者に向かってはいない。だから、「ぼく(ら)には覚悟ができていない」、です。

なんの覚悟かというと「一緒に貧乏になる覚悟」です。社会の構成員は、僕を含め、まだそこまで成熟しきれていない。経済が停滞していって労働人口が減少していって、経済はさらに落ち込む。その時にぼくらは「生活水準を落とす」をしなければいけないと思うんですけど、「みんなで貧乏になる」をしなければいけないんですけど、その覚悟が出来ていないから「290円のビール」に手をのばします。生活保護受給者を目の敵にします。

当座の知恵としてはその「まだ、覚悟ができていない」ことを覚悟することだと思ったりもします。そうするとただ単に「ブラック企業くそくらえ!」という断定口調に変化がうまれるんじゃないでしょうか。

あくまでも当座、ですけど。

しんたろう
久々の更新です。GAYOKUメンバーも社会人になりまして、はやくも3ヶ月以上が経過してしまいました。

エントリーを見返すと最後の方は殆ど私しんたろうの個人ブログのようになっていますね…。こんな小さな発信でも見ていてくれた人がいることを知って、今後も少しずつ実感したことを大切にしながら物を書いていきたいとおもいますのでどうぞよろしくお願いします。

まずは短いながらご報告まで。

しんたろう
大分前のエントリーで、「型なくして創造はありえない」といったことを主張しました。僕は自分でも「ほんとにそうかなぁ?」と思うこともとりあえず文章にしちゃいます。というのも、そうしておくと「思考のとっかかり」が出来るからです。それはクライミングのホールドみたいなもので、そこを起点に次の段階への足がかりや手がかりになるので、とりあえず書いてるんです。

さきのエントリーも足がかりとなって、僕を少しだけ押し上げてくれました。その「新しい段階」が今回のトピックです。でも、まず、それがどんなホールドだったのかというと、「クリエイティビティー、クリエイティビティー、と言うけれど、クリエイティブなことをするには、まずは型や規範を習得してからじゃないといけないよね」ということでした。新しいドイツ語を生み出したニーチェも文書の規範をゲーテやヴォルテール、さらには古代ギリシャ文献にまで求めたんだそうです。

それまでの僕は「事実を覚えさせていくだけの詰め込み型の教育は、クリエイティビティを損なわせている」ということを聞いていて、そうなのかぁ、と思っていたので、どうも事の次第は違うらしいと知った時に感動してその文章を書いたんですね、きっと。そして外山滋比彦による『思考の生理学』の一部を引用しています。

(引用はじめ)

「新しいことを考えるのに、すべて自分の頭から絞り出せると思ってはならない。無から有を生じるような思考などめったにおこるものではない。すでに存在するものを結びつけることによって、新しいものが生まれる。…。まったく何もないところにインスピレーションがおこるとは考えられない。さまざまな知識や経験や感情がすでに存在する。そこへひとりの個性が入って行く。すると、知識と知識、あるいは、感情と感情とか結合して、新しい知識、新しい感情を生みだす。その場合、人は無心であることが望ましい。」(p.57)

(引用おわり)

茂木健一郎さんによると、脳科学の分野においても「創造するプロセスが、思い出すことに近いということがわかってきている」んだそうです。脳の側頭連合野と呼ばれるところに様々な経験が蓄積されていって、それを前頭葉が引き出すことがつまり思い出すということらしいんですが、この時にその経験をそのまま引き出す場合と、それらを組み合わせて今までにないかたちで引き出す場合があります。前者を「想起」といって後者は「創造」そのものなんだそうです。(『人間の建設』(新潮文庫)p.178)

僕も「クリエイティビティを損なうような詰め込み型教育」を受けてきた人間ですが、今みたいに思い出しながら新しいかたちを創りだそうともしています。だって外山さんのお話と茂木さんのお話は全く違う時間に全く違う本の中で出会ったものです。でもそれらを「思い出す」ことで新しい脈絡をつけて同じ場所においてしまっています。ですからこれもささやかな「創造」であるんだとおもいます。と、いうように「型や規範があっての創造だ!」と主張していました。「思考のホールド」です。

それを足がかりに思考の段階をひとつだけ上げました。少なくともそのように信じていたのですが、先ほど引用した外山さんの文章をみて驚きました。というのも、その新しい知見だとおもっていたものは既にそこに書かれていたんです。それは最後の

「 すると、知識と知識、あるいは、感情と感情とか結合して、新しい知識、新しい感情を生みだす。その場合、人は無心であることが望ましい。」

という部分です。

たぶん、当時の僕もここを読んでいたはずですけど、そこに注意を払える準備がまだ整っていなかったんです。当時の僕が到達したのは、「創造には型が必要である・型を身につけなければ創造なんてありゃしないのさ!」というところまででした。そして今思うことは、「よし、わかった。創造には型の習得が必要だ。でも習得したその型を発揮するには一度それを全部忘れにゃいかん!」ということです。

例えばですけど、大学の試験にはOpen Bookという形式があります。その場合、テキストやノート、参考資料など殆どのものを持ち込むことが許されます。ですから「授業にはでたくない、でも単位は欲しい!」という学生はわざとOpen Bookのテスト形式を採用する授業を選んで、参考書籍と友達のノートの写しを持ち込んで試験日だけ学校に来るわけです。教授サイドもそれを承知しているらしく、質問回りの際には「初めましての方もいるかと思いますが、わたしが担当教員の~でした。よろしく。では、何か質問ありますか」といっています。きっと鉄板のネタなんですね。

僕の選んだ授業にもOpen Bookのものがあって、授業もきちんと出たことがあります。試験日にはテキスト二冊とノートを持ち込みました。隣の席には手あかのついていない綺麗なテキストとノートをコピーしたものを持ち込んでいる友人もいました。それに普段授業でみないひともたくさん来ていて、この授業を受けているひとがこんなにいたのか!と驚いたほどです。それに普段授業に来ている人ももちろんいました(割と少ないから覚えちゃうんですね)。

試験開始の合図と共にみんなまず問題をみます。「~はどういうことですか。~について踏まえながら解答しなさい」、という記述式の問題です。そして解答にとりかかるわけですけど、その時にちょっと面白いことがわかったんです。新しい面々や近くの友人はなにかとテキストを繰っている音が聞こえてくるんですけど、ずっと授業に出ていたひとは殆ど参照するということをしていないようなんです。ぼくも一時間の試験時間で2、3回しかテキストを開かなかったです。

まぁ、当たり前のことだったのかもしれません。でもぼくは、「まったく…。勉強してこない奴はだめだなぁ」とは思いませんでした。思いませんでしたけど、「参照が少ないやつほど面白い文章がかけているにちがいない!」とは思いました。その理由は自分の文章がとっても面白かったからなんです。手前味噌ですけど、読み返してみたらやっぱりすごく面白かった。これ、きっと受講者の殆どに当てはまるんじゃないかと思いました。つまり、「参照がすくない古参の学生の解答は、そうじゃない学生の解答よりもずっとおもしろい」ということです。

なぜかというと、参照しながら作る解答ってテキストから抜き出してそれをつなぎ合わせていくわけですから、おのずと「コピペの集まり」みたいなものが出来上がります。そうすると箇条書きみたいになって、文体や論理もチグハグで非常に読みにくい。一方で参照が少ない学生の解答は、下準備を十分に経たうえでそれらを思い出しながら新しい脈絡の上に文字を置いていきます。それは五線譜に音符を置いていく作業と同じで、一定のリズムを生み出していきます。そのリズム感が文章の面白みを引き出してくれるんです。

茂木さんのお話でいうと、参照をした解答は「想起」です。書かれていることをそのまま抜き出して紙上に置くだけですから、記憶をただそのままの状態で思い出しているようなものです。かたや参照の少ない解答は「創造」です。今までの経験を踏まえながらそれらを新しい形に練り上げて文章にする。この「創造」には普段の勉強が必要です。いわゆる「創造のための型の習得」です。でも本番になったらいっかいそれらを全部わすれたことにして書き始めにゃいかん。そうしないとただの箇条書きになってつまらない文章になるからです。そして結局、創造に結びつかないからです。外山さん風に言えば「(創造のためには)ひとは無心であることがのぞましい」ですね。

ちょっと話が変わりますが、つい最近スノーボードを楽しんできました。不慣れなスポーツをやると色々あたらしい発見があります。あまり習熟していないスポーツをやると、次はああしてみよう、こうしてみようと考えながら動くことになります。そのうち、意識しなくても上手に身体を使えるようになるんですけど、「考えながら動くこと」を経ないとこの段階には到達できない気がしました。

「こうしてみよう、ああしてみよう」と言っているときはまだ「型を習得している最中」です。上手い人の定義って「意識しないでも出来る」ってことなんじゃないですかね。だって、最初のうちは「こうやって曲がってみよう」とか考えながら滑るんですけど、ある程度習熟してくるとそんなこといちいち考えません。もう身に付いてしまってますから。だからある程度型を習得したらいっかい忘れることが必要です。そしてその無意識の中でも忘れていけないことがあります。それは「音楽」です。一度覚えたものを新しいものに置き換えていく作業にはどうしても「方向性」だったり「ながれ」というものが必要です。それを助けてくれるのが「音楽」だと思ったんです。

話を「創造」にもどしましょう。とりあえず僕のいいたかった「創造には型が必要で、でも、創造するときには一度その型を忘れなきゃいけない。だって身に付いたものは無意識の中で勝手に開花するから。」ということは書き終えました。あとは「その創造を助長するのは音楽だ」ということを言いたいんですけど、上手く言えるでしょうか。

英語のライティングのお話ですけど、これも「創造」が関わってくる領域です。他のひとが書いた文章とまったく同じものを書いても誰も読んでくれませんから、自ずと創造することになります。ただ、良い創造に向かうためには模倣することが必要です。ニーチェは古代ギリシャ語に規範を求め、漱石は漢詩を完璧に自分のものにしたといいます。「素読」という教育が長い間行われていたのもこれになにかしら益があったからでしょう。

英語では普段からの読書や語彙強化や文章パターンの習得が不可欠です。規範をじゃんじゃん吸収してしまうのです。「良い文章を書くにはどうすれば良いか」という質問にフォークナーはつぎのように答えました。

Read, read, read. Read everything - trash, classics, good and bad, and see how they do it. Just like a carpenter who works as an apprentice and studies the master. Read! You'll absorb it. Then write. If it is good, you'll find out. If it's not, throw it out the window.” (Faulkner)

(読んで、読んで、読む。ゴミみたいな作品から古典まで。良いも悪いもひっくるめて全部よむんだ。そしてどうなってるのかをよく知ることだ。それはあたかも親方の技術を見て盗む見習い大工みたいなものだよ。とにかく読みなさい。そして吸収するんだ。そうしてから書き始めたらいいさ。もし良い作品だったら自分でわかるだろう。だめだったら、そんなもん窓の外に放り投げてしまえ。)

つまり、読むことによって型を身につけて、それによって創造的なライティングの下準備が整うということでしょう。でも身に付いたものをそのまま書いていたらつまらない文章になります。一度その規範を忘れなければいけません。無意識の中で書いていると、勝手にその規範を前頭葉が引っ張りだしてきてくれます。そして良い「創造」に向かっていく。ただし、ある程度の方向性というか基底は必要です。それを上手くやってくれるのが「音楽」だと思うんです。

つまり単語を覚えたりフレーズを覚えたりするのは、音符を覚えていくようなもので、文章を起こすのは音符を並べることによって音楽を奏でることです。曲をつくるひとが「ふふふふ~ん♫」て口ずさみながら、そのつぎのフレーズを合うようにつないでいって音楽にするのと同じように、一つの英語のフレーズを置くと文章が流れ始めます。そしてひとつの音楽が完成するんです。

ぼくの実感では英語を読んでいるとき、実際には目で字面を追って読んでいるわけですけど、感覚としては聴覚が働いているように思えるんです。だからぼくは速読が苦手です。声に出して読むことが出来るスピードより速く読むためには、心の中で音を消さないといけないからです。ぼくが文章の創造には音楽が必要だと言うのはこれと関係があるんでしょう。変な英語や展開がおかしいときにはこの聴覚センサーが反応して、実際に読み返してみると、「あ、やっぱり、ここ変」となります。そのだけ不協和音が響くような感じです。

この「ものを創りだす時の音楽の重要性」って英語だけに止まらないかもしれません。プレゼンの時だってある程度うまくなると一字一句を覚えるのではなくて、流れだけを覚えてあとは無意識に言葉が流れ出ます。ものを教える時だって自分が一生懸命習得したものを言葉を使って説明していきますけど、リズムのある説明とそうでない説明では相手への伝わり方が違ってくるかもしれません。

「創造には型が必要で、それを忘れることが必要で、音楽が必要だ」がぼくのいまのところの考えですけど、もうすこし考えないとまとまらないですね。でもとりあえずこれが新しいホールドです。

しんたろう