ロストクライム -閃光-:刮目して見直すべき失敗作 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

ロストクライム -閃光-:刮目して見直すべき失敗作


ロストクライム -閃光-

監督:伊藤俊也
脚本:長坂秀佳、伊藤俊也
出演:渡辺大、奥田瑛二
音楽:大島ミチル
撮影:鈴木達夫
編集:只野信也
2010年 日本映画

僕は、伊藤俊也監督の事を特段好きなわけではない。
しかし、彼の作品には注目している。
寡作である。50年におよぶ監督歴で、フィルモグラフィーは、20本に達していないだろう。
しかし、そろそろ米寿に達しようとしているが、創作意欲は衰えてはいないようだ。

僕は、伊藤俊也監督の『日本独立』について書いたことがある。
僕は、そこに伊藤俊也の「韜晦術」を見たと、書いた。
ならば、伊藤俊也はダメ監督かと言われれば、とんでもない。彼は、才能に溢れている。
『女囚さそり』や『白蛇抄』に、僕は「映像詩」を感じる。
女性というセクシャリティのもつ、美しさ、妖しさ、哀しさ、強さ、そして強さと矛盾することのない弱さまでもを、映像化する能力。それは、天性のものだろう。

伊藤俊也が、あのまま「女性」と「イマジネーション」をひたすら追求していたら、どれほど味わい深い作品を見せてくれたことだろうか。若き日に才能にあかせて書き散らしたランボーの詩を『女囚さそり』にたとえれば、僕が観てみたかったのは、老境に達したT.S.エリオットの『カクテル・パーティ』のような肩の力が抜けた作品なのだが。

伊藤俊也は、ある時から、女性というセクシャリティを描くことから、男性を描くことに転向した。あるいは、イマジネーションから離れて、ノンフィクションを指向するようになる。たとえば、東条英機を描いた『プライド 運命の瞬間』や、先に挙げた『日本独立』などだ。これらの作品から、才能の横溢や、映像詩の美しさを、僕は感じることができないのだ。

さて、『ロストクライム -閃光-』だ。テーマは、『三億円事件』である。実際に起きた事件を下敷きに、その真相に迫り、翻弄される男たち(刑事)を描いている。
砂の器』におけるベテラン刑事(丹波哲郎)と若手刑事(森田健作)のコンビが、『ロストクライム』では、奥田瑛二と渡辺大ということになる。
松本清張原作の『砂の器』は、犯罪の謎解きが、やがてラストに至って、人間の弱さや哀しさへと収斂(しゅうれん)していって、見事だった。

『ロストクライム』のコンビも、犯罪の謎解きに取り組むのだが、その果てに現れるのは、腐臭を発する汚物である。人間の弱さに対する憐憫(れんびん)や、哀しさに対する同情が、さっぱり湧いてこないのだ。僕は、『ロストクライム』を見ながら、この不思議な感覚の出どころはどこかと、自問自答していた。

僕なりの結論は、こうだ。『砂の器』が主張しているのは、どれほど正義を振りかざそうとも、犯罪には、人間の弱さに端を発する、法律では裁けない哀しさもあるということだ。
それでは、『ロストクライム』は、どうか。犯人グループ(三億円事件は単独犯ではない)にも、犯行の巻き添えになる人びとにも、犯人を追う刑事たちにも、「もののあわれ」がない。犯罪映画は数々あれど、これほど虚しい作品はそうはない。伊藤俊也監督一世一代の失敗作だと、公開当時(2010年)僕は断じた。

ところがである。2024年になって『ロストクライム』を見直してみて、僕は刮目した。すなわち、『ロストクライム』のメッセージとは、「すべての未解決事件は、カバーアップ(隠蔽)である」だったのではないか。
「下村事件」しかり、「世田谷一家殺人事件」しかり、「朝日新聞神戸支局襲撃事件」しかり、「グリコ・森永事件」しかり、そして警察庁長官長官が「事件性なし」と発言して、事件にすらしてもらえない「木原事件」しかり。

社会や公共の秩序を維持するため、われわれ国民に対し命令や強制を加えることを許している警察という公権力は、わが国において、骨の髄まで腐敗しているということだ。警察に対して、「正義」など期待してはならない……恐ろしいメッセージではないか。

『ロストクライム』が、2010年という、半永久的に続くとも思われた自民党政権が、いったん民主党政権へと交代した時期に製作されたことは意義深い。「未解決事件」という巨大な伏魔殿の扉を人民の力で押し開けて、真実と汚物を白日の下にさらすには、最低限でも政権交代が必要だ。

権力とは、右だろうが左だろうが、汚物を貯め込むものだ。だから、民主主義をきちんと理解している国民は、定期的に権力の住処の扉を開けて、虫干しをするのだ。伊藤俊也監督は、そういうことを訴えたかったのではないか……そう考えれば、『ロストクライム』は、令和6年のいまこそ刮目すべき「失敗作」ではないか。