オフサイド・ガールズ:もうひとつの『この世界の片隅に』 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

オフサイド・ガールズ:もうひとつの『この世界の片隅に』


オフサイド・ガールズ
Offside
監督:ジャファール・パナヒ
脚本:ジャファール・パナヒ、ジャドメヘル・ラスティン
製作:ジャファール・パナヒ
出演:シマ・モバラク・シャヒ、サファル・サマンダール、シャイヤステ・イラニ
音楽:コロシュ・ボゾルグプール
撮影:ハマムード・カラリ
編集:ジャファール・パナヒ
2006年 イラン映画

僕は、ドイツで仕事をしている頃、イランの人たちと一緒に仕事をしたことがある。
彼らは、心優しく、礼儀正しく、謙虚で、知的であり、ユーモアがあり、皮肉屋であり、真面目だった。
褒めすぎだろうか。ごく限られた人たちとの、短い間の交流で、何が分かるのかと、お叱りを受けるかもしれない。しかし、ごく限られた人たちとの、短い間の交流で、どのような印象を相手に残すか。これは、とても大事なことではないだろうか。
立場を置き換えて、われわれ日本人が、海外で、どのような印象を他国の人たちに残しているか。それこそ、民間外交というものではないだろうか。

僕は以前、『この世界の片隅に』について書いた。
その時に、「北條すずは世界中に存在する」とも書いた。
今日は、2023年8月9日だ。日本人にとって、忘れはならない年月日が連なる8月。広島、長崎、敗戦……僕たちは今、どれほど平和について、思いを馳せているだろうか。
10年前、20年前と比べて、広島、長崎、敗戦を取り上げる新聞やテレビは、明らかに少なくなっているのではないだろうか。
ウクライナは、戦争の真っ最中だが、われわれはどれほど、その悲劇について、真剣に考えているだろうか。僕には、日本という国全体が、無関心を決め込んでいる、としか見えない。

戦争の足音が聞こえると、うそぶく文化人がいる。そういう人たちが、どのような行動を起こしているのか、僕にはわからない。戦争の足音を止めようとしているのか、あるいは戦争への行進に自分も加わろうとしているのか、どちらもそれはそれで個人の自由だが、ただ傍観しているばかりのようで、僕には不気味に見えるのだ。

戦争とは、まず仮想敵国を作るところから始まる。その時の常套手段は、国家と国民との境界線を巧妙に誤魔化すことだ。国家とは、共同幻想の上に成り立つ実存であると喝破したのは、吉本隆明だったが、僕たちが忘れてはならないのは国民(人)なのである。ところが、国家が仮想敵国のプロパガンダを展開して攻撃対象するのは、まずその国の「人」なのだ。

われわれが「鬼畜米英」と叫んでいた時に、かの米英もわれわれを「ジャップ」や「イエロー・モンキー」と呼んで、憎み蔑んでいたではないか。その憎しみや蔑みの延長線上に、凄惨な沖縄での地上戦があり、焼夷弾によるじゅうたん爆撃があり、原爆投下があったのだ。「北條すず」という架空のキャラクターは、われわれ一人ひとりの人間存在の代名詞であり、ひとりの命の重さは地球にまさると言うメッセージだった。

だから、北條すずは、世界中に存在するのだ。北朝鮮にも、ウクライナにも、ロシアにも、中国にも……。

そして、きょう僕は、また新たな「北條すず」に出会った。『オフサイド・ガールズ』に登場するのは、強烈な男尊女卑の戒律の中で生きるイランの女性たちだ。自国のサッカーチームを熱烈に応援する、ごく普通の女性たち。
僕たちは、イランという国を、色ガラスを透して見ていないだろうか。宗教や政治体制は、たしかに、われわれとは違うかもしれない。しかし、そこに暮らす人々の、日常生活と喜怒哀楽にどれほどの違いがあるというのか。

ジャファール・パナヒという才人監督によって、メッセージは僕の胸に突き刺さった。大上段に構えた作品ではない。むしろ、淡々と、ドキュメンタリーを思わせる演出で、物語は進行してゆく。
ああ、イランの北條すずよ。僕は君を忘れない。どれだけ政治を議論しても、戦争は解決できない。人を思い出そう。人を想うことだ。平和はそこから生まれるはずだ。