宮廷画家ゴヤは見た:ミロス・フォアマンの人生を投影した人間喜劇(悲劇) | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

宮廷画家ゴヤは見た:ミロス・フォアマンの人生を投影した人間喜劇(悲劇)


宮廷画家ゴヤは見た
Goya's Ghosts
監督:ミロス・フォアマン
脚本:ミロス・フォアマン、ジャン=クロード・カリエール
製作:ソウル・ゼインツ
製作総指揮:ポール・ゼインツ
出演:ハビエル・バルデム、ナタリー・ポートマン
音楽:ヴァルハン・バウアー
撮影:ハビエル・アギーレサロベ
編集:アダム・ブーム
2006年 スペイン・アメリカ合作映画

なんとも情けない邦題をつけられてしまったものだ。
『宮廷画家ゴヤは見た』は、どう考えても『家政婦は見た』の二番煎じだろう。
名監督ミロス・フォアマンの生涯最後となる作品を日本で公開するなら、せめて原題に忠実なタイトルにしてほしかった。
では『ゴヤの幽霊』とは何か。
それは、絶望という視点で描かれた人間喜劇(悲劇)ということになる。

ミロス・フォアマンを一言で形容すれば、筋金入りの悲観論者だろう。
戦前のチェコで、ユダヤ人を父として生まれ、養父は反ナチ運動家。
実父、養父共に強制収容所で死んでしまい、孤児となり親戚知人の家を転々としながら成長する。
東欧ヌーベルバーグの旗手として注目されるが、その矢先にチェコ動乱が勃発し、アメリカに逃れる。

決して多作ではないが、アメリカに渡ってから製作された『カッコーの巣の上で』と『アマデウス』だけでも、十分に映画史上に永遠に記憶される存在となった。
ミロス・フォアマンの特徴は、人間をその崇高さと醜悪さの両面から描こうとする視点だ。
『カッコーの巣の上で』の主人公は、狂人と偽って精神病院に逃げ込み、狂人以上の乱痴気騒動を巻き起こすのだが、観客はそこから人間存在の崇高さを感じるのだ。
『アマデウス』においては、無上の名曲を次々に創り出す天才モーツアルトの実生活の破綻ぶりを、ザリエリの視点からシニカルに描いていた。

『宮廷画家ゴヤは見た』においては、『アマデウス』におけるザリエリの役割りをゴヤに与えた。
天才画家ゴヤの視点で描かれるのは、フランス革命からナポレオンの興亡に至る激動の時代に翻弄される人々だ。
ナチスや戦後の東西冷戦をくぐり抜けてきたミロス・フォアマンだからこそ描くことができる人間喜劇(悲劇)だろう。

ハビエル・バルデムが演じる修道士は、スペイン国教であるカトリック教会の威を借りて、異端審問に血道を上げる。
ところが自らが拷問にかけられると、あっさりと信仰を否定し、母国を追われることになる。
年月を経て、ナポレオン体制に取り入り、スペイン占領に乗じて母国に戻り、新政権の幹部に収まる。
しかし最後には、ナポレオンの没落によって、侵攻してきた英国軍によって捕らえられ、死刑を受け入れることになる。
『コレラの時代の愛』でも紹介したが、ハビエル・バルデムという役者は、人間存在の不可解さ、その悲しみを演じさせたら天下一品だ。

忘れてならないのは、偽りの異端審問の犠牲になる富豪の娘を演じるナタリー・ポートマンだ。
何不自由なく育てられた若き女性として登場する彼女の美貌は輝く程だ。
しかし、酒場で出された豚肉を単なる好き嫌いで食べなかったというだけで、ユダヤ教徒の嫌疑をかけられ牢獄に入れられてしまう。
その理不尽さは、ナチスのユダヤ人強制収容所や、反体制派の弾圧など、現代に至るまで絶えることなく続いている。
イスラエルに生まれ、ユダヤ教であることを誇りとするナタリー・ポートマンが、なぜこの役に取り組んだのか。
彼女の人権問題に対する、ある意味では生命を賭けた覚悟を感じるのだ。

牢獄に入れられた娘は、先の修道士によって強姦され、女の子を産み落とす。
その子は、女性修道院に引き取られるが、やがてそこも追われて、市中の娼婦となる。
ナポレオン軍によって牢獄から解放された身も心も崩壊した女と、自らの子である娼婦の二役を、ナタリー・ポートマンが見事に対比させている。
娼婦に身をやつしていた娘が、その美貌によって、英国占領軍の高級将校の目にとまり、最後には王族と共にバルコニーに立つ。
権力者など、所詮はそのようなものだという、ミロス・フォアマンの強烈な皮肉だ。

ハビエル・バルデムとナタリー・ポートマンの織りなす濃厚な人生だけで、十分に楽しめる作品だ。
ゴヤと彼の作品が、その分霞んでしまったようで惜しい気がする。
教養とはひけらかすものではなく、あくまで控えめに自らの内なる楽しみとすべきというのが、ミロス・フォアマンの奥ゆかしいところなのだろう。