コレラの時代の愛:コロナの時代にも通じる「愛」の神話 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

コレラの時代の愛:コロナの時代にも通じる「愛」の神話


コレラの時代の愛
Love in the Time of Cholera
 

監督:マイク・ニューウェル
脚本:ロナルド・ハーウッド
製作:スコット・スタインドーフ
製作総指揮:ダニー・グリーンスパン、ロビン・グリーンスパン、アンドリュー・モラスキー、クリス・ロー、マイケル・ノジック、ディラン・ラッセル、スコット・ラステティ
出演:ハビエル・バルデム、ジョヴァンナ・メッツォジョルノ、ベンジャミン・ブラット、ジョン・レグイザモ
音楽:アントニオ・ピント
撮影:アフォンソ・ビアト
編集:ミック・オーズリー
2007年 アメリカ映画

神話には真実が秘められている。
「神」話は、「真」話に通じると思う。
太古から語り継がれてきた神話があるのと同様、我々は自らの時代の神話を創り出している。
このような壮大な感想を抱かせてくれる作品はめったにない。
『コレラの時代の愛』との出会いは、僕にとって奇跡だった。

ノーベル文学賞を受賞したガブリエル・ガルシア=マルケスの小説を原作としている。
監督は、才能あふれるマイク・ニューウェルだ。
僕は、『コレラの時代の愛』こそ、マイク・ニューウェルの代表作であり、最高傑作だと思う。
『コレラの時代の愛』は、あまり多くの人に知られていないかもしれない。
しかし、だからこそ、僕にとってはとても私的で、他人から踏み込まれたくないような、思い入れがある作品であり続けているのかもしれない。

神話には、時代背景があるようで、実は重要な要素ではない。
『コレラの時代の愛』は、おそらく19世紀後半から20世紀前半が舞台だろう。
コロンビアという、われわれにとってあまりなじみがない国。
疫学的には、高温多湿、劣悪な衛生環境によるコレラという伝染病の蔓延。
政治的には、左派と右派、民主主義と独裁主義が常にせめぎ合ってきた。

原作に描き込まれた時代背景は、映画においても凝りに凝ったディテールとして描かれている。
だが、精緻をきわめた時代背景は、なにも主張しない。
主張しないどころか、主人公の「愛」の遍歴からは、まったく無視された存在なのだ。
感染爆発しようが、戦争が起きようが、革命が始まろうが、人間本来の営みはそれらにまったく影響されない。
これこそ、ガルシア=マルケスの主張であり、マイク・ニューウェルが描きたかった本質ではないだろうか。

神話が語ろうとする人間の真実とは何だろうか。
それは「愛」である。
愛とは、恋愛であり、性愛であり、親子愛であり、同胞愛である。
『コレラの時代の愛』は、これらの愛の諸相を、余すところなく丹念に描いていく。
まさに現代の神話である所以である。

神話は真話であるがゆえに、あらゆる誤解と幻想を打ち砕く。
たとえば、結婚とは、恋愛の帰結なのか。
性愛に、恋愛感情は必要なのか。
親子の情は、対価を求めない、無私のものなのか。
そして、同胞愛とか愛国心というものは、ただの自己満足に過ぎないのか。

これらの疑問こそ、人間存在そのものへの問いかけだろう。
科学や哲学をもってしても、正解を導くことができないからこそ、「愛」は貴重なのだ。
そして、僕は泣いた。
76歳の主人公、フロレンティーノ・アリーサの年齢には及ばないが、僕も立派な高齢者だ。
「ああ、地球の裏側にも、ひとりの同志がいた」。

この事実に感動したのだ。
フロレンティーノ・アリーサが、小説の中の架空の人物か、実在の人物か、そんな疑問は無意味だ。
『コレラの時代の愛』の作品世界こそ、「真」話なのだから。

いま、われわれは「コロナ」の時代を生きている。
ガルシア=マルケスは、見事に真実を予見していた。
一世紀前の「コレラ」が、現在の「コロナ」であることを。

もう一世紀たてば、別の「コ※※」が蔓延していることだろう。
しかし、「愛」をめぐる人間の真実には何の変りもないはずだ。
『コレラの時代の愛』を観終わった後の、包みこまれるような感覚。
100年後にも、間違いなくフロレンティーノ・アリーサは存在するはずだ……。
そして「僕」も……。
この幸福感こそ「愛」の神話だろう。