前回、飛行機で山陰に行ったお話。

どこから話してよいか分からない位に長くなりそうで。

20年近くおよぶ話なのですが、できれば簡単に。

 

(静岡県静岡市清水区 三保の松原。遠くにうっすら見える富士山。)

 

お世話になっていた方というのは、前職の代表取締役社長であった方です。

 

私が研究員として採用されたとき、その方は人事担当でした。

その会社の事業の中で主要な領域・分野があったとして、私が学ぶ専門分野は、規模が小さくて従来の領域からするとこれから発展できるかな?といった状態だったので、会社側(お世話になった方の前の社長)は専門知識持っている人間を一人雇って、試しにそっちの領域にも手を伸ばしてみるか、程度であったと思います。

 

私は会社の中で異分子の存在でした。営業メンバーも売ったことがなく、製造メンバーも作ったことがない領域の製品開発を任されておりました。

 

実質手探りの中、水族館や水産会社に電話したり、生きた泳ぐ魚を運ぶために活魚トラックを探してチャーターしたり、お世話になっている大学や水産試験場にも顔を出したり、そして当局とも相談したり。

 

そんなときに、どうなるか分からない代物をやっている私の開発テーマに対して、社内でも力強くサポートしてくれ、日本国内をめぐる出張にも一緒に同行して下さったのは、当時企画学術部長となっていたその方でした(実際、社内で私に代わって多くの説明・説得をされていたと思います)。

 

その結果、産学官連携プロジェクトとして取り組むことになり、特許発明を経て、国に認可されて、新製品がついに市場に出たのです(そのとき、私がお世話になった方は代表取締役社長になられていて、トップ外交もしてくださっていました)。

 

低迷基調のとある地域産業に対して、経済的ダメージを引き起こす病害の対策方法としてその製品が採用され、次世代の新産業として立ち上げることに大きく貢献することが出来たのです(産学官メンバーの皆さんとは、製品が出来たらプロジェクトXいけるんじゃない?と酒席で話していたら打ち切りになっていたのは当時の笑い話)。

 

話を盛っていると思えるかもしれませんが、公的助成金を出して対策すべき必要がある課題であったことは間違いなく、新産業への貢献やその後の展望について評価を頂き、この製品開発については国から大きい賞を頂きました。その後(今はもうなくなってしまいましたが)、農水省から推薦頂き以下のような会にも参加する機会を頂きました。

 

 

 

産学官連携プロジェクトを進めていた時の実務担当者の方々とは今も古い戦友のような間柄です。しばらく会っておりませんが、会えばすぐあのときと同じようにしゃべれる自信があります。その輪の中には、私がお世話になった社長も勿論メンバーの一人として声がかかると考えます。

 

比較的マイナーであったこの分野に目を向けて、地道な活動を拾いあげ応援して下さったのはその方です。その方のサポートなく、この人生を共にするメンバーのつながりは出来なかったでしょうし、この製品は世に出なかったでしょうし、その産業も苦しい時期がもっと長引いていたのではないかと思えます。そして私の人生も違うものになっていたと思えます。

 

この方は、その後年齢等の理由によって社長を後任に譲り、会社を後にして静岡県静岡市清水区の三保に終の棲家を構えました。

私は年賀状を続けていましたし、退任後も連絡をとっておりました。

 

上京時に居酒屋でお酒を飲んだり(妻も一緒)、私がイワヒバにかこつけて東海エリアに行く時に三保に寄ったこともあります。釣りが好き、お酒が好き、飛行機が好き、ウクレレが好き、赤ら顔でずっとよくしゃべり通りました。浜田市(鳥取県)で一人暮らしされているご母堂様のお世話があり、遠いところだけど時々出かける、という話も聞いておりました。

 

昨年のこと。2023年11月に私の実父が亡くなり喪中葉書の準備をしていました。この元社長T様にも出す算段をしていたところ、逆にT様から喪中葉書が届いたのです。

 

読んでみたらT様の息子さんからでした。

 

父○○は2023年1月1日永眠しました、といった内容でした。

 

(ここまで書いてジーンと来てしまいました。今日はもう書けません。続きはまた別の日に)