西村賢太さんが私淑した作家・藤澤清造
所用で出かけた七尾市にある
芥川賞作家の西村賢太さんの生前墓と
七尾市出身の作家・藤澤清造のお墓に寄ってきました。
西村賢太さんは藤澤清造のお墓に並んで、生前墓を建てたという。
西村賢太さんは藤澤清造に想いを寄せ、
破滅型私小説にこだわり続け、「苦役列車」で芥川賞を受賞した。
藤澤清造は七尾市出身で、貧困と病苦を私小説にし、
昭和7年1月29日、東京の芝公園で凍死した。
↓の写真はアサヒコムからいただきました。
西村賢太さんは厳しい生活を送る中で藤澤清造の作品と出会った。
僕よりダメな人がいる”と知って救われたという。
七尾市にアパートを借りて、
清造の足跡をたどり、清造忌を営んできた。
西村さんの受賞により、不遇の作家・藤澤清造に光が当たった。
両氏のお墓がある七尾市小島町の浄土宗・西光寺。
藤澤清造は明治22年七尾市の農家に生まれ、
10歳の時に父親を亡くすと同時に働きに出、
13歳の時の病気により、足に後遺症を負った。
友人から本を借りて読む内に、文学に目覚め
18歳の時に、雑誌記者だった親友を頼って上京した。
憧れの東京生活も現実は厳しく、
印刷屋や製本屋、新聞配達などで働いたという。
親友の紹介で、同郷の徳田秋声や室生犀星と面識を得、
21歳の時に秋声の伝で演芸画報社に入社した。
奇想天外というか、歯に衣を着せぬ物言いの清造は
10年余で出版社をやめた。
論争を続けた芥川龍之介とは、
最後まで書簡を交わす間柄だったという。
西光寺の本堂です。
藤澤清造の作品「根津権現裏」は、
自分をモデルに、貧困と病苦からくる無力感や怒りを綴っている。
島崎藤村や田山花袋、久保田万太郎などが賛辞を送ったという。
身元不明者として荼毘に付された清造は、
後日、徳田秋声や室生犀星らにより、
芝増上寺別院で葬儀が行われた。
今年1月29日の命日に西光寺で西村賢太さんが参列し、
12回目の清造忌、追悼法要が営まれた。
墓前に芥川賞の受賞を報告し、
宿願という全七巻の「藤澤清造全集」の刊行について、
印税で何とか出したいと語った。
来年は没後80年、地元七尾市でも清造に想いを寄せる人が多い。
お二人のお墓の横に、能登が生んだ大横綱・阿武松のお墓もあった。
苦しさを笑い飛ばすかのような藤澤清造。
綺麗事だけでは生きていけないこの世。
人間の本質とは。
不幸の根源を抉り出す執念。
西村賢太さんが私淑したその意義を
この歴史的災害に遭遇した今、
日本人として、あらためて噛み締めて見たい。