昭和40年浦和店開店。その店長館洞勇一君70歳の告別式でした。その下で川原弘平君は経験を積み上げ昭和48年柏店初代店長に就しました。後に実家の跡継ぎのため帰郷(三陸)しました。その日彼は、地震後消防団員6人で一緒に居ました。そこで6人中4人が津波に流される経験をしました。車を捨てとっさに山に逃げた。『日頃からの意識の差』だと言っていた。35メートルの津波は、切羽詰まった事態から、後ろをも振り向かず必死で山をかけ登らせ、逃げきったと思う彼の足元の30センチまで浸した。
男気、奉仕、責任感は人を引き付けます。消防団員の彼とその仲間達には汐が引いてからの時間が重くのしかかっていった。遺体回収整理は、顔見知りではない自衛隊員ではそれが誰だかが分からない。だから消防団員の力がどうしてもいる。さらには損傷が少ないとされる被災者に共通するのは、肉体の突起は擦られ、もまれて耳がない鼻がない。それでも生き残った彼らは、日々これに当たった。 「生き残った者は、これをやらなければ、しょうがないんだ」と弘平さんは思っていたと言った。ことの良し悪しの感情もなく必死で過ごした瞬間の日々。 しかし多くの日々。 壊滅の町。流されなかった家も海水が運んだ砂が、壁の隙間から未だに漏れだす。
行政や多種な地元の意見で未だに家もたてられず。 仮設の夜は真っ暗闇。これが被災者の皆さんの、いつまで続くか見通しの立たない現在の人生。
川原弘平=(途中から関戸富夫)生活にまったく見通しがつかない日本人もいれば、裕福に気づかないで、あたりまえが不自由と思う日本人がいる。 舞台の大 小 の差なくそれは私たちの社会、身の回りにあふれている。これが日本の現在社会。我々は足元をしっかり見据えて不景気や倒産危機という、この津波の気配を神妙に感じとりながら、今 改めて流されないを意識する日々を送ろう。
こんなことは報道されない。5日経た遺体の口からは虫が出てくる、それは凄惨な。報道の画面でみていた大きな視点と、現場の小さな視点とのそれまでの認識の違いに、声もでない。臨場の凄まじさにただ唖然とするだけ、そういう話を聞かされました。まさに今の自分の環境に感謝。