磯子、地名の由来
19世紀初頭の根岸湾の原風景はどうであったかを見るには・・・・・

①伊能忠敬(1745-1818)の測量図面に地形の特徴が明確に表現されている。


②安藤広重(1797-1858)の「武相名所手鑑」(1851)の本牧の塙に磯子の崎が絵画化されている。

③マシュー・カルブレス・ペリー(1794-1858)の海深測量図面にも確認できる。つまり根岸湾は三つの崎、「本牧の石屏からの崎」「磯子の荒磯の崎」「富岡の崎」とで構成された湾であることだ。磯子の崎は岩礁地帯であり、間坂の海側から森の浅間下まで突出した岸壁で砂浜がないため、磯子から森に行くには実際に山側を通るしかなかったのである。
「磯」とは何か?源実朝(1146-1199)は有名な「大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けた裂けて散る」と歌っているように単なる浜辺ではないこと、つまり「浜っ子」とは違うのである。また、領主平子は「平子郷」禅馬村と古文書で云うが磯子村とは云わない。しかし16世紀、北条早雲(1431-1519)によるこの地域から追放後は現在まで490年間、磯子村であり、そして磯子区制がひかれたのである。つまり禅馬区にはならなかったことだ。
従ってこの磯子とは「磯」を中心とした地形の自然背景による村を構成した村落共同体であったから、磯っ子の愛称が詰まった「磯子」になったものである。