梅の名所だった杉田

横浜から外国人たちも磯子を通って馬車で梅見に…
杉田は妙法寺を中心に梅の名所だった。


「これはこれは ここをや梅の吉野山」-これは画家であり俳人である酒井抱一(1761~1828)の句で、「杉田の梅」を桜の名所吉野山と比べ絶賛していることで知られています。

もともと杉田の梅は地場では産業に恵まれなかったため、約400年ほど前、江戸時代の初期に村民の副業として梅樹を植えることが奨励されましたが、元禄年間(1688~1704)にさらに繁殖されて、梅林は3万6干余株にもなったと云われています。

その杉田の梅林と称されるのは、妙法寺境内を中心とした地域で
したが、幕末に近い寛政・享和年間(1789~)には、森・森中原・根岸・滝頭・富岡から屏風ケ浦一帯の村々に広がり、2月の花時には、芳香数里に達し江戸からも多くの観梅客が訪れたといわれています。やがて横浜が開港し、外国人が増えてくると磯子経由で観梅に来るようになりました。

その様子を『磯子の史話』で次のように記しています。(要約)
横浜の外国人たちやはまっ子たちは、江戸時代の道ばかりでなく、
磯子経由の道も通るようになって、間坂道が賑わいました。明治
の初め頃は、屏風ケ浦に断崖があるので、海岸の道は通れず外国
人たちは、遊歩道を八幡橋まで来て滝頭の波止場から船で杉田へ
行きました。

陸路を行くときは、八幡橋から浜・山王谷の旧道(鎌倉道)をプ
リンスホテル西側を登り、浅間神社わきの汐汲坂か赤穂を経て七
曲坂から下って森村に至り、里道を通って杉田へ行ったのでした。
明治17年、間坂にトンネルが出来てからは、梅見シーズンにな
ると、横浜の職人たちは草鞋がけで、また外国人たちは馬車を使
ってトンネル道を通りました。

また、乗合船で来る人も多く、横浜からはもちろん江戸から五大力船(大型の漁船)で直航してくる人もあったといわれます。

一番利用されたのは、今の南区中村町東橋のそばから出る10人乗りの船で、杉田行の船は聖天橋の船着場で観梅客を降ろしましたが、船着場といっても施設はなく浜に直に着き、干潮のときは数十メートル沖に船を止め、杉田の漁師の背中に負ぶされて砂浜まで運ばれたそうです。

かっては、皇室から皇太后が二度に渡り(明治17年、19年)杉田の観梅に行啓されるなど、「杉田の顔」とも云われた梅林も、遠い過去のものとなり、妙法寺の境内や近隣の庭にわずかにその名残をとどめているにすぎませんが、梅は区の木に指定され今も皆様に親しまれています。