日本初の石鹸
フランスのシャボンに魅せられ

明治6年、日本初の石鹸を製造した磯子の堤磯右衛門(石鹸事始めは以前に記しましたが、今回は製造者の人物像を紹介します)

天保4年(1833)、堤磯右衛門は久良岐郡磯子村(現・磯子区久木町)の名主の家に生れました。

慶応2年(1866)、34歳のときに神奈川台場を造った御用商人・蔵田清右衛門の代理として横須賀製鉄所建設工事の監督をしていましたが、仕事が終わったあと米ぬかで手を洗っていると、フランス人科学技師・ポエルが石鹸(シャボン)を貸してくれ、使ってみると汚れが驚くほどよく落ちるので、ポエルに石鹸の造り方を教わり、これが石鹸づくりのきっかけとなりました。

磯右衛門は間もなく製鉄所を辞め、自宅の一室を実験室とし石鹸の研究を始め、幕府が倒れ明治の世になっても実験を続けていたといわれています。

明治5年(1872)、横浜税関へ行ったとき、1年間に20万円もの石鹸を輸入していると聞いた磯右衛門は、「輸入を防ぎ国益を興そう」と一念発起し、研究心は一層燃え上がりましたが、思うように石鹸ができません。減量を買うにもお金がかかり、田畑や家財を次々と売り生活はますます苦しくなりました。

親類からは見放され、妻からも「こう貧乏してはどうにもなりません、どうか研究はやめてください」と苦言を呈されたといわれています。しかし断念せずに、ついに石鹸の製造に成功。その経緯を『磯子の史話』では次のように記しています。(要約)

「中村川沿いの三吉町(現・浦舟町)に、根岸や磯子村から約20人の作業員を雇い入れ、堤石鹸製造所を建設。しかし、どうやってもうまくいかず、力尽きてやめようと思い、固まらないままどろどろになっている原料を、清めの塩をふりかけてそのまま放っておいたところ、一夜たった翌朝水が固まって石鹸のようなものができており、その固まりで汚れ物を洗ってみると、汚れが落ち大喜びしたといいます。こうして固まった石鹸を一定の大きさに切り洗濯石鹸として1個10銭で売りました。明治6年、磯右衛門が40歳のときでした。これがわが国で最初に造られた石鹸といわれています。

「堤の石鹸」はたちまち評判となり、世界からも認められ、石鹸の輸出額は逆に輸入額を超え、明治10年の内国勧業博覧会では、花紋賞牌が贈られています。また器用な磯右衛門は、商品のレッテルの絵や品名なども自分で考案し、俳優似顔絵、象形、朝妻形、桃太郎形など色々な名前の石鹸を販売。さらに、日本で初めて就業規則を制定、就業時間などをこと細かく定めました。文明開化の時代に発揮した

磯右衛門のマルチな才能には感心させられます。