不動坂からの眺望

「外国人遊歩道」で人気のビュースポット


横浜開港とともに、イギリス、フランス、ロシア、オランダの人々が関内に住むようになりましたが、その後、居留地は山手地区へと広がって、開港後静かだったこの辺りにも文明開化の波がおしよせてきました。


当時は、攘夷を唱える浪士たちが外国人を狙った襲撃事件が相次ぎ、居留地の人たちも身の危険を感じていたため、英国人4人が殺傷された生麦事件を機に、英仏両国の公使は幕府に、「横浜居留地覚書」という文書を提示し、山手一帯に安心して馬車も通行できる遊歩道を設けるよう申し入れました。この道路は「外国人遊歩道」と称され、仕
様はミシシッピーベイ
(根岸湾)を回る延長4~5マイル(約6.4~8km)、幅20フィート(約6m)で、英国軍隊の指揮のもと着工してから1年、慶応元(1865)年に完成しまた。


道筋は、地蔵坂上から根岸森林公園(競馬場跡)を経て不動坂を下って本牧を回り、千代崎町から桜道(山手町)を抜けて地蔵坂へ戻るルートと、不動坂を下って右折し現在の中通(東町、西町)を通り八幡橋へ至るルートがありました。

私たちに馴染み深い不動坂は、遊歩道を根岸旭台の三叉路から下る坂道ですが、下って左へカーブをするすぐ先の左角に樹林に囲まれた大きな邸があります。『磯子史話』によるとこれは明治10年代に聞かれた牧場跡で、牛舎17~8棟が並び50頭位の牛を飼っていたと記されています。


さらに下った不動坂の姿が、遊歩道開設当時に発売された「横浜手彩色絵葉書」の中に映しだされていますが、それを見ると道路の左側は切り立った崖、正面に望む根岸滝から遠く房総半島、手前に三之谷と本牧岬の景観が広がりまさに「絶景」で、遊歩道の中でも人気のビューポイントだったそうです。

また、八幡橋へのルートも根岸の海岸を潮風にさそわれて、外国人たちが美しい眺望を楽しみながら回遊していたといわれ、磯子周辺の人たちは、遊歩道などの影響で外国人と接する機会が多くなり、外国人向けの花や球根、西洋野菜などが作られ、また、農民たちが水田をリンクにして外国人に貸す「根岸村スケートリンク」を明治(1876)年に開設したという記録も残されています。半農半漁の磯子の村々は、遊歩道を駆け抜ける西洋馬車の響きとともに近代化をすすめていったのでしょう。