久良岐郡

大和朝廷の直轄だったという磯子区のルーツとは…



安政6(1859)年に開港した横浜は、武敵国久良岐郡横浜村といわれていましたが、明治13年の郡区町村編成の際、久良岐郡から独立し「横浜区」が設置され、同22年の市町村制施行により「横浜市(現在の中区一帯)」となってからは次々に久良岐郡域を編入、昭和2年に磯子区誕生、同11年に、金沢町、六浦荘村が横浜市に編入され、地図の上から久良岐郡の姿は消えました。

 

そこで今回は磯子区のルーツともいうべき久良岐郡の歴史をたどり地名の由来を調べてみました。

 久良岐の名が歴史上に記されたのは、今から1500年ぐらいの昔、大和朝廷が東方の武敵国へ支配を進めようとした頃です。日本書紀によると、そのころ北武蔵に内乱が起こり、大和朝廷はこれを機に朝廷の直轄地「屯倉(みやけ)」を4ヵ所設けたと書かれており、その一つが後の久良岐郡(現在の磯子・中・港南・金沢区一帯)といわれています。

 

郡名について、14世紀後半頃までの文書は「久良」と書いて「くらき」と読ませていましたが、文明年間あたりから「久良岐」とするのが一般的となりました。



初めて久良岐郡と記された文献としては、文明5(1473)年、真照寺に阿弥陀堂領の寄進をした際の文書に記述されています。その語源を『武州久良岐郡地名考(抜粋)』によると久良は古語の座≪くら≫で、すべて人の、あるいは物の位置すべきところを

≪くら≫と呼んだのであろう。つぎに岐は城()で、城とは、

堀や柵を設け外敵から守るため内外を区切った一区域のことである。

郡の中枢部は大岡川流域地帯で、この流域の周囲は低いながらも複雑な丘陵が重なり、臨海地帯も一筋の山脈が海岸にそって南北に走り防壁になっている。

このように要害は堅固で、しかも東南は海に面し風光明媚で気候も温暖、水陸の物産も豊かで、城内は広いというほどではないが人々の住むのに誠に好適な一大城郭をなしている。と記され、一説によると現在の栗木付近に庁舎をはじめ正倉や穀倉があり郡内の政治が行なわれていたといわれます。

 

今では、久良岐公園、久良岐橋、久良岐能舞台などにその名をとどめている久良岐郡(久木町は郡名から採用) ― 久良岐の変遷を調べていくと、その中心は現在の磯子区域にあり、悠久の歴史に深い感慨を覚えます。