杉田

東漸寺(とうぜんじ)に杉の大木があったから、「杉田」?
江戸時代は、武州久良岐郡杉田村といい、明治22年の市町村制施行の際、磯子村、滝頭村、岡村、森村、森中原村と合併して、屏風浦村大字杉田となり、昭和2年に横浜市に編入して杉田村となりました。

その歴史をたどってみると、鎌倉時代の初め、東漸寺の創建と関係がある桐谷寺の縁起には杉田郷を寺領にするとあります。その後南北朝の頃に妙法寺が建立され、それが大寺だったため、村名を寺家(じけ)にしたといわれます。


杉田から寺家に変わりましたが、元禄の頃に領主であった間宮敦信がまたもとの杉田に戻したのです。改名した理由は、東漸寺の釈迦堂の前に樹齢千年はあろうかと思われる刹竿樹(旗立杉)と呼ばれた杉の大木があったためと云われていますが、昭和12年頃に枯れてしまい今はありません。


枯れた杉は切り倒され、現在本道に安置してある虚空藏菩薩立像約三尺三寸(約100㎝)の台座となっているといわれています。
妙法寺には、室町末期から江戸時代まで、杉田を治めた間宮家歴代の墓があり、「解体新書」を著した杉田玄白や、間宮海峡を発見した間宮林蔵も杉田間宮家の子孫といわれています。ところで、妙法寺といえば有名な杉田梅の発祥の地で、いまもその面影を残しています。


その梅作りの祖が天正年間の領主・間宮信繁で、梅作りを農民に奨励
し、平時は梅の生産で農を援け、また戦のときの非常食として梅干を作らせたといわれています。

なぜ梅の木を植えたかというと、杉田村一帯の土質は砂まじりの野土で、穀物や野菜作りに適さなかったといわれています。ちなみに地名研究で「スギ」というのは「砂礫地」を意味するとかー。現在の杉田1~5丁目は昭和53年、同6~9丁目は昭和54年の住居表示施行にとも
ない杉田村、栗木村、中原町、上中里町、金沢区富岡町の各一部から新設した町です。

私の母校は浜中学校であり、商店街「プラムロード杉田」には親戚や同級生が店を出しており知り合いも多く、杉田はなにかとなじみが深いまちー 歴史遺産を継承しながら、さらに魅力ある地域にしていきたいと思います。