杉田坪呑

今回は坪呑です。田んぼを呑む池があった「杉田坪呑」
「呑む」といえば、普通は酒、茶など水気のあるものを連想します
が、なぜ「坪」という土に関係ある「坪呑」になったのでしょうか。
その由来を調べるため『磯子の史話』をひもといてみました。

同書によると、『この坪呑の「坪」は、大化の改新の詔に示され、
大宝律令(701年)で完成した「班田収授の法」によると条里制の地割の一つであります。条里制というのは、農地を碁盤の目のように規則正しく区切った地割制度で、口分田の班給を容易にするために行われたもので、縦横一町ずつ三十六等分に仕切って、その一町四方を「坪」といいます。
(中略)人々は割り当てられた口分田を耕し、その収穫の中から面積に応じ租税を納めたのです。
条里制は機械的な地割であるから、ある区画の中に池が含まれたり、小さな山があったりします。
杉田村は、古くから水に恵まれない土地でしたから、溜池が必要だったのでしょう。
坪付にあたって、ある坪がほとんど池で占められていたので、坪を呑んでしまうことから、坪呑という地名がうまれたのではないかと考えられます。』と記されています。
ちなみに、その昔、栗木村に「島坪」という地名がありましたが、この地域は大岡川が蛇行していて、中の島のようになっていたので、坪付と名付けられたと考えられています。
現在の杉田坪呑は、昭和63年の住居表示施行にともない、杉田町、杉田3丁目の一部から新設した町で、この町の大部分を占める字「坪呑」と旧町名の「杉田」を合成したものです。今は団地となって、その面影もありませんが、かってこの池には「坪呑池」と称する溜池があり、私の出身校である浜中学校も近かったので、泥んこになってザリガニ釣などをしてよく遊んだ思い出があります。
今年1月に「杉田坪呑小公園」で、桜24本とレンギョウやツツジなど1300株の植樹祭が市の進める150万本植樹行動の一環として行われ、守屋磯子区長、地元自治会の大西会長とともに私も出席しました。
(この場所は、もとは市の道路用地でしたが、今回の植樹に際して、「坪呑小公園」と名付けられました。)