磯子のあゆみ~その11

昭和11(1936)~44(1969)年 区域の編入・分離……
さまざまな条件を解決しながら現在の磯子区へ!
磯子区のあゆみを調べてみると、横浜市の地域政策にしたがって、区域では編入と分離が繰り返されています。


六浦荘村と金沢町編入(昭和11年)港北区と戸塚区を新設した市の第4次拡張計画により、久良岐郡六浦荘と金沢町を横浜市へ編入させ磯子区へ所属させました。


当時の区長は「編入の条件として道路に砂利を敷き、水道を引くこと。もちろんこれは異存な<受け入れてくれました。

そのうえ、学校再編問題で、廃止にきまった釜利谷小学校を存続させることで、長年滞納していた税金も全部帳消しにしてくれたので大いに助かりました」と話しています(『磯子の史話』より要約)。


編入された地域は、農漁業が主でしたが、日平産業、石川島コーリング、日本製鋼所、日本飛行機などのメーカーがあり、時代の波にのって盛況を呈していたといわれています。


金沢区へ分区(昭和23年)分離の理由は、人口が多くなって行政がもてあましたわけでも、住民運動によるものでもなく、地理的条件、つまり、富岡のトンネルを境にして市民生活上なにかと不便があったからだそうです。実際、区役所へ行くのにも交通費が12~3円もかかったと記録に残されています。それよりも問題になったのは、「電話の方式」です。磯子区はダイヤルの自動式、金沢地域は磁石式だったため、自動式にしなければ独立できません。結局、電話局にする建物を市が提供することで、分区直前の22年にダイヤル式となり、ようやく分離にこぎつけることができました。

南区の一部を編入(昭和44年) 。洋光台団地の完成にともない、南区笹下町、日野の一部、上大岡町の一部が組み込まれ、現在の磯子区ができあがりました。今年、新年会でお会いした洋光台地区消防団・9分団の方(以前、南区の消防団に所属)から「南区から磯子区に編入した時、消防団の団長だった貴方のお祖父さんの関寅吉さんから『磯子へようこそ』と歓迎を受けた」との思い出話を聞き、私自身も40余年前にタイムスリップした感じで感無量でした。

この1年、「磯子のあゆみ80年」のコラムで、いろいろな角度から区内の歴史を調べてみました。次号からは「町名の由来」という企画で磯子の町を探訪していきたいと思います。