磯子のあゆみ~その9

昭和31(1956)[根岸湾埋立計画]具体化-
地元の漁業関係者「寝耳に水」と驚いた!


磯子区の歴史を語る上で欠かせないのが根岸湾の埋立てです。高度成長期の昭和30年代に入って、埋立計画が本格化するにしたがい、着工までにさまざまな問題があったことが記録に残されています。


平成20年の年頭にあたり、改めて『磯子の史話』をひもとき、先人の偉業に思いをめぐらせ調べてみました。


根岸湾は遠浅で地盤が良く埋立てに適しているので、明治から大正時代にかけていくつかの埋立計画があり、昭和16年に市会で議決されたものもありますが、戦争の激化で実現されませんでした。


戦後この計画は26年に公の場で取り上げられましたが、ちょうど同じ頃に、国鉄根岸線の計画が進められていたので、埋立てと鉄道誘致がセットで企図され、31年に埋立事業計画が具体化しました。

ところがこの計画は事前に地元の漁業関係者とは協議されていなかったため、まさに「寝耳に水」。漁業組合の皆さんが反対運動に立ち上がったのはこの時期からです。

32年に、屏風ヶ浦・根岸・本牧の各漁協が結成した埋立反対
期成同盟連合会は、市当局に対して、埋立反対の陳情書を提出。その後、漁協組は市と討議を重ねた結果、「根岸線の計画については、横浜発展のためという大乗的な見地から賛成」と絶対反対の旗は降ろすこととなり、補償交渉へと移っていきました。


交渉は単に補償金たけにとどまらず、組合員の生活対策を含めて総合的に折衝、難航を極めましたが、33年12月、屏風ヶ浦漁協組臨時総会で補償額の内容を承認。総会では、漁協組・関寅吉顧問(私の祖父)と演田竹次郎参与が、埋立反対と補償交渉のようすを総括して話し、大須賀金太郎組合長からは、支援に対する感謝の辞のあと、「海がなくても、海に変わるべき方法で今後ともお互いに努力して戴きたい」と挨拶がありました。


着工は34年、最終工区が完成したのは46年と、実に12年の歳月を要しました。工場は公害防止に対して細心の注意を払い、周辺には市の緑化計画にしたがって緑地帯を作り、従来のエ場地帯のイメージを一新しています。現在、根岸駅前の中央緑地に、根岸湾漁協組の埋立記念碑が、また森町公園のプール脇には、屏風ヶ浦漁協組の碑(叙作・関伝次郎/寅吉の弟・私の名付け親)があり、交渉の経過などが刻まれています。