アフリカのおとぎばなし(Африканская сказка)ロシアのアニメーション | 知られざる いろんなもの

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日本では殆ど知られていない、海外の珍しいものの紹介。

 

【監督】Режиссёр

リアニート(レオニード)・ヴァルサノフィエヴィチ・アリストフ

Леонид Варсанофьевич Аристов

イーゴリ・ヨーシフォヴィチ・ニカラエフ(ニコラエフ)

Игорь Иосифович Николаев

 

【脚本】Автор сценария

イーゴリ・ヤーコヴレヴィチ・バルガーリン(ボルガーリン)

Игорь Яковлевич Болгарин

 

【美術】Художник-постановщик

ナタン・オズィアーソヴィチ・レルネル

Натан Озиасович Лернер

 

【スタジオ】Студия

ソユーズ・ムリトフィルム

Союзмультфильм

 

【時間】Длительность

15分(мин.)

 

【初公開】Премьера

1963年

Африканская сказка - Википедия

 

独立国家ケニヤの建国者、初代首相である、

ジョモ・ケニヤッタ(Jomo Kenyatta)を寓話的に描いたものらしい。

 

というか、翻訳に自信が無いので、もしかしたら、

ケニヤッタの書いた物語を元にしているのかも?

というのも、後述する様に、彼は物書きもしているからです。

 

白人(西洋人)を「白い象」として描いているようです。

 

その白象が、煙草や娯楽雑誌など、

頽廃文化の象徴的なものを黒人に贈り、堕落させ、

そうやってアフリカの土地や自然の恵みを奪っていく。

 

そして更に、その黒人の家まで奪ってしまった。

黒人は動物の裁判官に訴えるものの、

文明の贈り物(煙草や雑誌)をくれたのだからと、

見返りを与えなければならないと黒人に有罪判決を下してしまうが…。

 

白い象の側に立つ人(というか動物)の中には、

聖職者も含まれています。

まあ、ソビエトでは宗教は否定されていましたからね。

歴史を見れば、宣教師が侵略の尖兵だったという話もありますから。

 

当時は冷戦時代ですので、西側攻撃の意味合いがあったのかも?

ソビエトは西側とは違ってそんな頽廃文化なんてありませんってか。

 

でも後述するように、

ケニヤッタはソ連に留学して経済学を学んだものの、

(彼がアニメのモデルになったのもそういう理由か?)

ソ連留学への手引きをしてくれた恩人、

黒人革命家ジョージ・パドモアがスターリンに睨まれた事で、

共産主義への猜疑心を募らせてしまったというのが、

凄い皮肉というか。

 

それにしても、アフリカの部族風の室内に、

「プレイボーイ」の様な娯楽雑誌が無造作に置かれている場面は、

かなりシュールです!!

 

ケニヤッタについては日本語のWikipediaが作られています。

 

ミッション系の学校で初等教育を学んだだけの様ですが、

独学でかなりの教養を身につけ、

様々な職業を掛け持ちで働いたため、裕福だったそう。

 

以下はWikipediaより。

 

1923年頃から居酒屋経営をはじめるが、

そこが民族運動家の溜まり場となったことから

政治活動にも興味を持つようになり、

1926年にキクユ中央連盟(英語版) (Kikuyu Central Association, KCA)

の書記として活動に参加しはじめる。

 

1927年、組織の金を横領して姿を消した前任者の後をついで、

仕事を辞めてKCAの活動に専念するようになった。

 

1929年と1931年にKCA代表として渡英し、

植民地省との交渉にあたる。

なお、1931年にはマハトマ・ガンディーと会見している。

 

そしてそのまま帰国せず、当時は著名だった黒人革命家

ジョージ・パドモア (George Padmore 1901-1959) の紹介でソ連へ渡り、

モスクワ大学で経済学を学んだが、

パドモアがスターリンに睨まれたこともあって、

得たのは共産主義への不信感だけであり、

1933年、改めてロンドン大学の聴講生となった。

 

同時に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの研究生となり、

文化人類学者ブロニスワフ・マリノフスキに師事して、

キクユ族の伝統文化について研究を行い、

1938年、欧米で出版された最初のアフリカ人の著作と言われる

名『ケニア山を望んで』("Facing mount Kenya") を出版。

この時、初めて「ケニヤッタ」と言う名前を用いている。

 

(中略)

 

1952年にマウマウ団の乱に関係したとされ、

またその一味であったとされ逮捕された。

 

裁判官や通訳者などが

不当にケニヤッタを扱った[1]とされる裁判は5ヶ月に及んだが、

インド系およびインド本国からの有名弁護士が彼を支援し、

さらには、ケニヤッタ自身が若い頃、

ナイロビ地裁の通訳として働いていた経験もあった。

 

結果として7年間の重度労役処分[2]とされたが、

ケニア北西の辺境地ロドワーに移送され

保護観察下での執行猶予処置とされた。

 

現在の研究でも、彼とマウマウとの関係はあったとされているが、

他の説を唱える研究もある。

 

ケニヤッタは教会から問題視されるほどの大酒飲みで、

なおかつ居酒屋経営という仕事柄、付き合いがあった酒の密輸組織が、

マウマウ団の母体の一つだったともいわれる[3]。

結果的に1959年まで刑務所で過ごすこととなった。

 

(中略)

 

語録

「白人がアフリカにやってきたとき、

われわれは土地を持ち、彼らは聖書を持っていた。

彼らはわれわれに目を閉じて祈ることを教えた。

われわれが目を開いたとき、

彼らは土地を持ち、われわれは聖書しか持っていなかった」