次は南相馬市で10月4日(金)に行った原発いらない金曜行動での発表文です。

南相馬市小高区の吉田 美惠子が行いました。

 

2019年10月4日(金)原発いらない金曜行動

 

 1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料加工会社JCOで起きた臨界事故から20年が過ぎました。東海村は北関東に位置し、太平洋に面した貧しい過疎地であったため、まず、原子力の研究施設を誘致しました。ところが研究施設と一緒に東海原発も来てしまったと元東海村村長で脱原発を唱えている村上達哉さんが書いておられます。

 新潮文庫の「朽ちていった命」によれば、JCOは日本原子力研究開発機構の前の会社から高濃度の核燃料の濃さを均質にして納入すると言う難しい注文を受けていました。

 注文に応じるために使っていた核燃料は、高濃度のウラン燃料で、それを加工するには格納容器の中の原子炉で造るような、危険で難しい作業をしていました。ところが、JCOは原子炉ではない普通の空間で、漏斗に核燃料を流して、その下の沈殿槽に流し込むことをしていました。漏斗に入れるのにはバケツを使ってながしていました。「朽ちていった命」の本のイラストを見ると良くわかります。

 低い濃度のウラン燃料だったら問題はなかったのですが、高い濃度のウラン燃料だったのでバケツで7杯入れた時、バシッと音がして臨界が始まりました。臨界とは核分裂が連続して起こる恐ろしい状況です。臨界の時出る、チェレンコフの青い光が放たれました。臨界が起こったので中性子線が飛び交い、JCOから350メートル圏の住民に避難要請が出ました。

  臨界で被曝したJCO社員2名が放射線障害で亡くなられました。必死に治療に当たった医療関係者は、原子力行政の杜撰さを厳しく非難しましたが、原子力関係者は全然気にしていなかったです。

 東海村の元村長の村上達哉さんは、臨界事故現場のJCOの沈殿槽などの設備は、事故を忘れないために保存して公開したらよいと考えていました。が、原子力推進派の人達からは「余計なことをする悪い人」呼ばわりされました。事故を起こした沈殿槽は、切断されてドラム管に密閉保管されています。ドラム缶の外側は毎時11マイクロシーベルト、一年間で96,360マイクロシーベルトです。そして模型の沈殿槽を作り、村内の原子力科学館の別館の一角で展示されています。が、見に来る人は減っているそうです。

 JCO臨界事故の後、経済産業省の中に原子力安全保安院が作られました。が、原発を推進する経済産業省の中に原子力を規制する保安院があったので、泥棒と警察官が一緒にいる組織といわれ、保安院は規制の役割はしませんでした。

 また、JCO事故を機に、全国の原発にオフサイトセンターが作られました。第一原発にも大熊町にオフサイトセンターがありました。が、事故が起きた時の要になる重要施設ですが、事故が起きたらオフサイトセンターの職員と東電社員の家族が、いの一番に逃げたと大熊町の人から聞きました。