「あの子、彼氏とやったらしい」女子高では性経験が“ステータス”だったが…“産まない選択”をした私が、大学で性行為に恐怖を感じたワケ
自分の意志で「産まない人生」を生きている、フリーライターの若林理央さん。しかし、周囲からは「なんで産まないの?」「産んだらかわいいって思えるよ」「産んで一人前」などと言われ、傷つくこともあるという。なぜ彼女は、子どもを産まない選択をしたのか。周囲の反応に対して、どのような葛藤を抱えているのか。
ここでは、若林さんの著書 『母にはなれないかもしれない 産まない女のシスターフッド』 (旬報社)より一部を抜粋。大学進学後、性行為に恐怖を感じた理由とは――。(全2回の1回目/ 2回目に続く )
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「性行為は女性としてのステップアップ」と認識していた高校時代
そんな高校生活ではあったが、教室の中にいる多くのグループでセックスの話題が交わされていたのは印象深かった。精神的な幼さと矛盾するかのように、身体は成熟に近づいていた私たち。いつしかセックスは「今経験してもおかしくないもの」になっていた。
「あの子、彼氏とやったらしいで」
そう噂された生徒は、クラスメイト全員から一目置かれる。性行為は女性としてのステップアップだという共通認識があったのだ。
その原因として考えられるのは当時の中高生は性教育が不十分だったことだろう。セックスが生殖行為だと知ってはいても、私を含めたほとんどの同級生は実際に妊娠するなんてテレビドラマの世界だけだと考えていたし、セックスに関することを親や教師など周りの大人に聞くなんてもってのほかだった。
実際にほとんどの親世代にとって性に関する話題はタブーだった。大人たちから「家族や親族であっても、男性の前では生理の話をしてはいけない」と言われたこともある。
通っている女子校でクラスメイトが「生理きた! ナプキン貸して~」と大声で言い、彼女の友だちが教室の端からナプキンを投げるのを見ながら、それを変なことだとも思わなかった。「生理は恥ずかしいことじゃない」という感覚は女子校に通っていたからこそ得たものなのかもしれない。
生まれて初めて楽しい学生生活を送った大学時代
附属の大学に内部進学できる私たちは、受験シーズンが近づいても焦る人は少なかった。ただ少数ではあるが外部の大学や専門学校への進学を望む生徒たちもいて、私もそのひとりだった。
中高時代の同級生たちから離れたいと考えていた私は、エスカレーター式で進学できる大学を選びたくなかったのだ。念願かなって、第一志望である神戸女学院大学文学部に進学することができた。
愛する母校だと今もあたたかい気持ちで振り返れるのは、小中高大でこの大学だけである。生まれて初めて楽しい学生生活を送った。
大学生だった4年間は、私が自分の人生について本格的に考える時期でもあったはずなのだが、フランスに短期留学したことをきっかけにフランス文学のゼミに入り、フランス語を勉強して「フランス関係の企業に入ってキャリアウーマンになろうかな」とのほほんと考えていた。のちに就職活動でフランス語ができても英語が堪能でなければ、ほとんどのフランス関係の企業には入れないと現実を突きつけられるのだが。
「セックスは生殖行為」だと急に突きつけられ
そんなある日、同じ大学に進学した、数少ない高校時代の知り合いに会った。彼女は懐かしそうにこんな話をし始めた。「3年生の時に同じクラスだったAさんおるやん? 子どもできて結婚したらしいで」
戦慄した。
急にセックスが、生殖行為だと突きつけられたからだ。
腹の中で子宮が、くるくる回っている気がした。Aさんが、元クラスメイトだと再認識することができないほど、遠い存在になる。
また、高校時代は特別視されていたセックスも、20歳前後になると経験者が増える。
「生理来ないんよね。妊娠したかな、どうしよう」
お手洗いの個室にいると、知らない学生のそんな会話を耳にした。
怖い。
私は怯えてしまって、その学生がいなくなったあともなかなか外に出られなかった。当時、軽い男性恐怖症だったのもあるだろう。
中高大と10年間女子校で過ごして、きょうだいもいとこも女性だけ、ナンパされるたびに聞こえないふりをして逃げる生活を送ってきた私にとって、同世代の男子は、小学校でいじめてきたクラスメイトのまま時を止めている。その男子がセックスをする相手という認識はゼロだった。
アルバイトでの挫折
「私は年をとってから結婚をして子どもは作らない人生を送る」
この気持ちは大学生になっても残っていたのだが、その「結婚」に至るまでに何が必要かまでは考えていなかった。
「こりゃいかん」と私は男性恐怖症を脱するためにリハビリを始める。書店でアルバイトをするようになったのだ。
男子大学生のアルバイト店員が多い書店だった。最初は怖かったが、そこで、じょじょに同世代の男性との会話に慣れていき、初めての彼氏もできた。順調なはずだった。異性との交流とは関係のないところで予想外の事態が起きるまでは。
「レジでのミスが多いね」
最初はやさしかった副店長が、だんだんと険しい表情をするようになったのだ。一生懸命がんばっているつもりなのだが、努力が足りないのかもしれない。
アルバイトが終わっても居残りをして、反省文や改善点を書いたりレジ作業の練習をしたりしたが、バイト中はとことん失敗をして迷惑をかけてしまう。
私よりあとに働き始めて、仕事中も雑談をしているバイト店員が器用にレジ作業をこなしているのに、私はいつまで経っても動きが遅かった。
私がADHDの診断を受けたのはそれから約15年後、つい最近のことである。やっと当時のミスの原因を突き止めたのだが、大学生の私はまだそれを知らない。ミスをするたびに自己嫌悪でいっぱいになり、アルバイトが終わると泣きながら帰宅していた。
「子どもを産んで家庭に入ったほうが幸せ」と思われている気がして
「もう20代なのに。あと何年かで就職するのに」
中学2年生で新人文学賞に落選した時も、ほかの仕事でならと夢見ていた。
しかしダメなのだ。「どんなにがんばっても、あなたはキャリアウーマンになれない。子どもを産んで仕事をせずに家庭に入ったほうが幸せ」と自分の周囲にいる全員から思われているような気がした。
初めての彼氏と別れたあと、私はアルバイトで挫折した経験を恋愛で埋めようとした。男性恐怖症を打破するどころか、いわゆる「遅咲き」の恋愛体質になったのだ。
恋愛経験は私に自信をくれた。
「私はいつか結婚したい。その夢は叶うのかもな」
なんとなく思った。子どもを産む、産まないについてはあえて考えないようにした。
〈 33歳で排卵障害が発覚、医者から「子どもは欲しいですか?」と言われ…“子どもを産まない人生”を選んだ私が、診断後に抱えた“葛藤” 〉へ続く
(若林 理央/Webオリジナル(外部転載))