「ステージ4」は、がんが離れた臓器や骨などに転移した状態で、通常、根治を目的とした治療ができなくなる。「がんを治す」という希望を失った患者は、医師から勧められる薬物療法(抗がん剤)に戸惑うことが少なくない。
本記事は、週刊朝日ムック『手術数でわかるいい病院2024』の特集「ステージ4 抗がん剤はやりたくない」から、前編・後編に分けてお届けする。前編では、がんの転移を告げられた患者のリアルな悩みと、治療選択肢について取り上げる。
■がんの転移を告げられた患者が困ること
大学の教員をしている坂口美恵子さん(仮名)が乳がんと診断されたのは2018年の夏、42歳のときのことだ。
しばらく落ち込んだが、主治医に「遠隔転移をしていないから治りますよ」と励まされ、手術で乳房を失っても、抗がん剤で髪が抜けても、「治す」という目標に向けて治療を頑張ってきた。
しかし4年目の検診で、肺に多発転移していることが発覚。坂口さんは当時のことをこう振り返る。
「これまでの治療はすべて無駄だったのかと愕然としました。転移したことで『根治』という希望も打ち砕かれて、これからどう生きればいいかわからなくなりました」
主治医が勧めたのは、抗がん剤と分子標的薬でがんの勢いを抑えていく薬物療法。根治は難しいものの、坂口さんのがんのタイプに効果が高い王道の治療だ。
主治医は「これからはがんとうまく共存していきましょう」「糖尿病の人だって病気を抱えながら生きている。がんも同じだよ」と励ましてくれた。しかし、坂口さんはこう話す。
「主治医の言うことは正しいと頭では理解しているんですが、当時は治りたい気持ちが強かったので、素直に受け入れることができないんですね。
がんがからだの中にあること自体も気持ち悪くてたまらない。『手術で取ってほしい』と食い下がって断られました。『先生はがんになった人の気持ちなんてわからないよね』と文句を言ったこともありました」
■頭では理解できても、気持ちがついていかない
がん看護専門看護師の熊谷靖代さんは、がん専門病院や訪問看護などさまざまな場面でこうした患者の葛藤を目の当たりにしてきた。
「転移を告げられたほとんどの患者さんは不安で、激しく動揺しています。感情に振り回されている状態で主治医から自分が望まない治療を勧められても、きちんと理解できないし、受け入れには時間がかかります」
患者や家族から「主治医に厳しい病状であることをピシャリと言われて傷ついた」「転移してから先生がそっけない」「医師の言葉が冷たい。もう少し言い方を考えてもらえないか」といった相談を受けることも多いという。熊谷さんはこう続ける。
「医師は患者さんの気持ちは理解していても、完治が難しいといった現状や医療的なことは正確に伝える必要があります。
しかしその多くが患者さんや家族にしてみれば『聞きたくなかった話』ですから、見放されたような寂しい気持ちになってしまうのかもしれません」
そして医療者が忙しく、十分な説明ができていないことも、患者や家族の不安や不信感を大きくする。熊谷さんは言う。
「医師だけでなく、外来化学療法室の看護師なども薬や副作用のチェックなどに時間を取られて、患者さんと話をする時間がなかなか確保できないんですね。
説明する時も『少し立ち止まって患者さんに寄り添うことができれば、もっと理解が深まるのに』と思うことは多いですが、人員は限られているので、現場が回らなくなってしまう。難しいところです」
がんが転移したときの患者の選択肢は? 医師「抗がん剤を受けない患者さん1割くらいはいる」© AERA dot. 提供
■主治医の変更や転院で「見放された」と思う人も
主治医との相性は大事だが、転移をきっかけに病院や診療科の変更を勧められるケースはとても多い。山本大輔さん(47)は、肺がんが肝臓に転移。呼吸器外科の主治医は抗がん剤で病勢を抑える治療を推奨した。
かかっている大学病院では薬物療法主体の治療は、薬の専門的な知識を持つ腫瘍内科がおこなうのが通例で、山本さんも転科することになった。
呼吸器外科の主治医はその日のうちに腫瘍内科の診察を受けることができるよう急いで手続きを進めてくれたが、山本さんは「絶望感でいっぱいになった」と振り返る。
「これまで熱心に治療してくれた主治医から『僕の診察は終わりです。あとは腫瘍内科の先生に……』と言われ、匙を投げられたと感じました。
そんな気持ちを引きずりながら、初めて会った腫瘍内科の先生に病状や薬の説明をされたところで、いっさい頭に入ってこない。この日どんな話をしたのか、何一つ思い出すことができません」
また転移後に薬物療法を続けていた患者が抗がん剤の効果がなくなったり副作用が強く出たりして治療を続けられなくなった場合、地域の病院や在宅医療(訪問診療)に移るよう勧められるのもよくあることだ。
緩和ケアを受けやすくしたり住み慣れた自宅で過ごせるようにしたりするためであっても、山本さんのように「見放された」と感じる患者も少なからずいる。
主治医が電子カルテに記入した、治療終了を意味する「終診」という言葉を目にして、「もうどうにもならないんだと落ち込んだ」人もいた。熊谷さんは言う。
「医師はけっこう『終わり』と言ってしまうことが多いですが、患者さんはこの言葉にとても敏感です。とはいえ、患者さんを送り出す側、受け入れる側、それぞれの医師や看護師がどれほどていねいに対応したとしても、『
自分が望んでいないほうへ行かなければならない』のは、患者さんにはつらいこと。すんなり受け入れてすぐに新たな関係を作れる人のほうが少ないのではないでしょうか」
また「お金」の問題も深刻だ。根治をめざせるがん治療では、治療内容も期間もお金もからだの回復状況もある程度見通しがつき、仕事の予定も立てやすい。
しかし転移をすると、治療がいつまで続き、どのくらいお金がかかるのか、進行して働けなくなったらどうやって生活するのか……患者や家族の不安は尽きない。
「訪問看護にいこうとすると、『先々もっと悪くなったときのためにお金をとっておきたいから、まだいい』と断られることもよくあります」(熊谷さん)
■転移の治療の選択肢は? 積極的治療以外も
がんが転移をすると、治療方針は大きく変わる。昭和大学藤が丘病院・腫瘍内科教授の市川度医師はこう話す。
「転移はがん細胞がもともとできた病巣から血流に乗って別の場所に移動し、CTなど画像で確認できるくらいまで育った状態です。
からだのあちこちに検査では見つからない小さながんが潜んでいる可能性が高く、手術や放射線のような局所療法で完全にがんを治すのは難しくなります」
■【治療その1】がんに対する積極的治療
<薬物療法>
転移の治療は全身に効果がある薬物療法が基本になる。しかし薬でがんをゼロにするのは難しいのが実情だ。そのため根治はできなくても、がんの進行を抑え、つらい症状をやわらげて、今まで通りの生活をより長く続けることを目指していく。
薬の進歩は目覚ましく、「従来の抗がん剤(殺細胞性抗がん剤)」や「ホルモン剤」に加えて、「分子標的薬」「免疫チェックポイント阻害薬」といった新しいタイプも登場し、薬の組み合わせのバリエーションも増えた。
「一昔前とは違って、薬物療法を受けながら何年もごく普通に生活できている患者さんがたくさんいます」(市川医師)
ただし、副作用は必ずある。薬の種類や量を調節したり、副作用を軽減する薬を使うなど対策(支持療法)は進歩しているが、それでも副作用を抑えられず、生活の質が低下するなどし、逆に命を縮めてしまうこともある。治療効果と副作用のバランスをとりながら治療を進めていく。
近年は、個々の体質や病状に適した治療をおこなう「がんゲノム医療」が注目されている。患者のがん組織や血液を解析して、がんに関わる数百個以上の遺伝子を一度に調べる「がん遺伝子パネル検査」をおこない、効果が期待できる治療薬を探す。
遠隔転移があって標準治療が終了している人などを対象に、2019年からがん遺伝子パネル検査に保険が適用され、受けやすくなった。ただし治療薬にたどりつける患者は、約1割とされている。
<局所的な治療>
転移した場合でも、手術や放射線といった局所的な治療がおこなわれることはある。一つはがんによって生じる症状をやわらげるため。特に放射線治療は、骨転移の疼痛の緩和や骨折予防、気道や消化管を圧迫しているがんを小さくして呼吸を楽にしたり食事をとれるようにしたりする、がんからの出血を止めるなど、さまざまな場面で活用されている。
もう一つは、転移が少数個の場合に、薬物療法で縮小した転移巣を取り除く手術や放射線治療で根治と同じような状態に持ち込めるケースもある。
<標準治療以外の治療>
研究段階の新しい治療を臨床試験や先進医療で受けられる場合がある。安全性や効果を確認することが目的で、さまざまな参加条件が設けられているが、自分の病状に合えば、選択肢の一つになる。
■【治療その2】積極的な治療をしない
抗がん剤は薬の耐性でいずれ効かなくなる。さらに副作用でからだが弱ってしまったときは治療を中止せざるを得ない。
また、最初から薬物療法をしないのも選択肢の一つだ。
「当身体的に薬物療法が可能であっても、治療(通院)の時間をほかのことに使いたい、自然に任せたい、抗がん剤に抵抗があるなどさまざまな理由で薬物療法を受けない患者さんが1割くらいはいます。なにもしなくなるわけではなく、必要に応じて緩和ケアをおこなっていきます。
患者さんが利用しやすい地域の病院や在宅医に引き継ぐことはありますが、医療とのつながりが切れてしまうことはありません」(同)転移が小さいうちは症状が出ないことが多いが、がんの進行にともなって痛みや呼吸苦、倦怠感、腹水など、さまざまな症状が表れ、いい状態が維持できなくなることがある。
なかでも緩和ケアを要する代表的な症状が「痛み」だ。進行がん患者の約7割は、痛みがあるといわれている。ここ20年ほどの間に緩和ケアは大きく進歩し、医療用麻薬も含め鎮痛薬の種類が格段に増えた。
鎮痛薬だけでなく、放射線治療や神経ブロック、体位の工夫、マッサージや鍼灸などいろいろな手立てで、痛みをかなりやわらげることができるようになった。痛み以外のつらい症状も、多くは治療法が確立されている。
「転移が進行していくと、臓器機能が低下したり、全身状態が悪化したり、合併症を起こしたりして、亡くなることになります。苦痛を和らげる医療はいろいろあるので、激しく苦しむことはありません」(同)
取材・文/熊谷わこ
【取材した専門家】
野村訪問看護ステーション がん看護専門看護師 熊谷靖代さん
がんが転移したときの患者の選択肢は? 医師「抗がん剤を受けない患者さん1割くらいはいる」© AERA dot. 提供
昭和大学藤が丘病院 腫瘍内科教授 市川 度 医師
「抗がん剤をやめたいが、主治医に言いづらい」 根治困難な「がんステージ4」 治療するかの選択は?© AERA dot. 提供
※週刊朝日ムック『手術数でわかるいい病院2024』より