アラサー目前! 自閉症の息子と父の備忘録 梅崎正直
「お父さん、これは個性だと思いますか?」
向かい合った医師からそう言われ、反応できなかった。一瞬、問いの真意がわからなかったのだ。
「個性……と思いますが」「これは個性ではありません。専門家なら見まがうことはない。息子さんは自閉症です」当の本人は、床に並べた玩具をひたすらいじっている。妻の胸に抱かれた次男がぐずり始めた。
単語が二語文にならず
区役所の保健所(当時)に呼び出されたのは、長男・洋介(仮名)の3歳児健診の後、1996年の冬のことだ。言葉が遅いこと、単語は多く発するが、いっこうに二語文になっていかないことが、通常の発達と違っていることは感じていた。
公園に行っても、他の子と遊ぶことはなく、すべり台ばかりを何時間も、日が暮れるまですべり続けた。
当時は、「自閉症スペクトラム 」という言葉が、ようやく聞かれ始めた頃。いくつかあった専門書を読んだが、自閉の特徴の中には、わが子には当てはまらないことも多くあった。
例えば、「視線が合わない」とか。ときおり、きらめくように言葉を発することもあって、「障害」はまだ、僕ら夫婦にとって現実の問題とはなっていなかったのだ。
「弟がすぐに追い抜く」と
だから、保健所から呼ばれたときにも、発達に関して相談をする程度に思っていた。部屋に入ると、精神科医とだけ名乗った医師とカウンセラーが並んでいた。
そして、始まってすぐに突然落ちてきたのは、その医師の言葉だった。両親のただならぬ気配を感じ取ったのか、ちょうど1歳になる次男が泣き始めた。すると、医師はこう言った。
「今に、この子が追い抜いてしまいますよ」
心の準備がなかった妻が、泣き始めた。僕はといえば、なぜか顔は笑っていた。不思議なことに、笑いが止められなくなっていた。周りからどう見えているんだろう、おかしな親と思われるんじゃないか……と思っても、それは止められなかった。
後に、「笑い」をテーマに取材をしたとき、ある大学の先生から教わった。人は予想を超えた衝撃を受けると、笑うことがあるという。
「笑うしかない」というのは、そうしなければ自分を支えられないからなのだろうか。どんなに引きつった醜い笑みだったとしても、あの日の僕は。
泣く妻 跳びはねる息子
千葉の郡部に引っ越すことが決まっていた僕らに、
「(大都市の)ここなら様々な支援が受けられますが、引っ越した先には何もありませんよ。覚悟してください」
という言葉が追い打ちをかけた。
まだ泣いている妻と、傍らで上機嫌にぴょんぴょん跳びはねている長男を連れて、区役所からのバスを待った。バスはなかなか来なかった。真っ青に晴れ上がった空に風景がこびりついて、まるで油絵だと思った。
ようやく来たバスで駅に行き、そこで別れた。僕はその足で職場へと向かったのだ。いつもより遅い時間の都心へ向かう列車はすいていて、僕はぼんやりと座っていた。
特段、悲しいとも、つらいとも思わなかった。ただ、それまではかわいいだけだった息子とのいろんな思い出や、他人の言葉や、漠然とした考えが、意識を出たり入ったりした。
無意識のうちに涙が…
40分ほどたって、職場に最寄りの水天宮前駅が近づいた。当時は、そこが地下鉄の終点だった。心の中は空白に近かった。
だけど、気がつけば、両目からは涙がボロボロと流れ出ていた。他の乗客が怪訝(けげん)な顔でこちらを見ている。
人はおかしいから笑うのでなければ、悲しいから泣くのでもない。ただ、あふれ出るのだと知った。
医師の厳しい言葉は、現実を見ない若い両親の目を覚まさせるためだったのだろうか。 思えば、僕と息子の歴史は、この日、始まったのだ。
※この連載では、もうすぐアラサーに突入する自閉症の長男を巡る、けっこう大変だけどフツーの日々をつづっていく。
梅崎正直(うめざき・まさなお) ヨミドクター 編集長
1966年、北九州市生まれ。90年入社。その年、信州大学 病院で始まった生体肝移植手術の取材を担当。95年、週刊読売編集部に移り、13年にわたって雑誌編集に携わった。社会保障部、生活教育部(大阪本社)などを経て、2017年からヨミドクター