最近は、新聞を斜めに読んでいたのだが、さっき、今日の日経新聞の読書欄に目が留まった。

私は何度かCIAもFBIも存在していない日本は世界で唯一の国であり、それゆえの危険に満ちていると言っても過言ではない事を、書いて来たからだろう。

例えば、優雅な孤立主義と反ユダヤ主義が席巻していた中で世界最高の豊かさと繁栄を謳歌していた、当時は、今よりも世界のチャンピオンだった米国は、ナチスに対して戦う気は全くなかったと言っても過言ではなかった。この米国を参戦させるために、英国の諜報部は、ありとあらゆる策謀を続けて、終に、日本の生命線だった、石油の禁輸にこぎつけた、と私は書いたが、その事が多分、100%正しかったはずだと確信させる書評だった。(なお、ここに何の注釈もなく書かれている諜報部員サマセット・モームとは、あの作家のはずだと思い、ウィキペディアで検索してみたら、正に、彼そのものだった。)

ここに書かれている事実が、諜報活動の実態であることを疑う者はいないだろう。韓国や中国の諜報部が、

一咋年まで日本を牛耳って来た朝日新聞などのメディアを手の内に入れることは、赤子の手をひねるよりも容易い事だったはずだ。おまけに、日本にはCIAもFBIもないのだから。

題字以外の文中強調は私。

レーニン対イギリス秘密情報部 ジャイルズ・ミルトン著

革命後の英ソのスパイ戦描く

ヨーロッパで約900万人の死者を出した第1次世界大戦の終盤の1917年、ロシアで二月革命が起こり、8月に首都ペトログラードに潜入したイギリス秘密情報部(SIS、通称M16)のサマセット・モームは、ロシアのケレンスキー首相に、対独戦争継続と来るべきボリシェヴィキ戰のための軍資金を提供する旨を伝える。だが、優柔不断な首相のために、モームの極秘任務は水泡に帰する。その後の十月革命でソビエト政権の首班となり、反革命軍との内戦に勝利したレーニンは、西欧資本主義国に対する第一の攻撃目標は英領インド帝国であると宣言する。 

ところで、09年創建のSISは、この大事件にアッと言わせるやり方で対応した。 

本書は、ロシア革命から21年の英ソ通商協定締結までの5年間の英ソのスパイ戦を扱う。 

第1次大戦勃発直後の14年9月、SISはペトログラードのロシア陸軍省内に、18人編成の支局を創設した。

元保守党下院議員で準男爵が支局長、作家、外交官、陸・海軍将校、新聞記者、実業家、音楽者などがメンバーであった。彼らは、変装・欺瞞作戦の名手であった。

だが、レーニン暗殺未遂事件やソ連政府転覆未遂事件が、残忍なチェカー(ロシア秘密警察)による「赤色テロ」を誘発し、全支局員は国外退去する。その後、赤軍と反英イスラム勢力が連帯したインド革命作戦 が本格化し、SISの3人の諜報員がソ連に再潜入する。命懸けでソ連の戦略を探る。赤軍車両部隊の運転手、あるいは逮捕状が出ている自分自身の逮捕を下達されるチェカー将校、またコミンテルンの創設大会に出席する来賓などに事もなげに変装する強者であった。

彼らの情報を生かしたのがインド帝国諜報部であった。ソ連のインド帝国作戦の進行中に、工業生産の不振と穀物の凶作のためにソ連の経済が崩壊の瀬戸際になった。鳴り物入りの「戦時共産主義」政策の大失敗であった。数百万人の餓死寸前の国民を抱えたソ連政府が打ち出した起死回生の妙薬はイギリスとの通商協定の調印であった。それには、イギリス側からの強い条件、つまりインド帝国に対する陰謀の恒久放棄を呑むことであった。すでにSISはソ連政府の高官を手の内に抱えモスクワでの極秘会議の内容、をほんの数時間後に正確に把握していたのだった。 

諜報活動は、「昔ながらの戦争よりも徹底的に敵を叩くことができる」が、これ以降のイギリス対外政策の教訓となったのである。

 

《評》法政大学名誉教授 川成洋