東大入試国語に詩人・長田弘の文章が出たのが2023年。ガッコウに来た某教科書会社の人が、ウチは既に教科書に出してました〜(予想してました〜エッヘン)、と自慢していたと聞いた。

清岡卓行「手の変幻」が出たのが2007年で、いまだにコウコウ教科書(論理国語)には掲載され続けている。ミロのヴィーナス。教科書とか問題集とかってだいたい大学入試の後追い(もしくは先取り?)だけど、中でもやっぱり東大入試国語の影響はでかいね(たぶん)。

コクゴの先生が新聞記事(天声人語とか?)を試験に出題しがちなのは、要は先生たちが新聞くらいしか「読書」してないからだ、って悪口を聞いたことがあるけれど。それならば、大学入試問題をきっかけにAmazonで本を買い、読書しがちである(他にはやっぱり、新聞広告とか記事をきっかけに買うことが断然多い)ーわたしの行動は、幾分かマシではあるでしょーか。


ともあれ、最近の東大入試国語で個人的におもしろかったのは、断然内田樹「反知性主義者たちの肖像」(2016年入試)。これはもう、わたしのバイブルです。これ読んだ当時、まさに「反知性主義者」たちに囲まれてシゴトしていたものですから。普段感じていることを、よくもまあ、ここまで言葉にしてくれた、という感じで、ほんと胸のつかえが降りた(まあ、新たな怒りが湧き上がってはきたけれど)。もちろん自分自身の集団における働き方を振り返るきっかけにもなった。

その人が真に知性的であるかどうかは、その人を含む集団のパフォーマンスにおいて、その集団のパフォーマンスが上がったかどうかという点において、しかも事後的にしか判明しない、と。この「事後的」という言い方を、内田樹は他でもしてる。キョーカショに載ってた、働き方に関する文章でも同じこと言ってた。それが真の意味で労働であったかどうかは、事後的にしか、過去に遡及する形でしか分からない、と。


この夏読んだ、池上哲司「傍らにあることー老いと看護の倫理学」(2015年入試)の影響とも相まって、夏休み明け、そして今後の(個人的なことですが、あと二年しか正規キョーインとして働く気がない)自分の働き方について、パフォーマンスのあり方について、こうして駄文を綴りながら、つらつらと考えているところであります。


そう、大人は(受験生は!?)こうして東大入試国語を利用すればよい、と思うのであります。

そろそろ古典に行こうかな。

byせいよう(コクゴキョーシとして、一番得意分野は古典文法!)