102年間、生き抜いた体 1 | 『自分と家族の健康は、自前で築く』整体カウンセラーのブログ
祖母が3月3日に、元の世界へ還りました。

102歳でした。
住まいが別になってからの15年以上は、整体できなかったのですが、
見事な大往生でした。
同年齢の野口晴哉の奥さん昭子さんより結果的には、10年以上長生きしましたし。
もちろん人生は長さではないですが、祖母なりに全生したのだと思います。
お見事です。

そんな体や生活は、どうだったのか肉親の視点と整体の視点から、
解析して行こうと思います。



思い返せば、今年は会えず終いでした。
春は心臓に来やすいので、覚悟はしていたけど。
何せ、お疲れ様  の一言です。



1914年大正3年12月8日平群生まれの102歳。
第一次大戦が始まった年であり、東京駅より数日年上です。

平群町の500年以上続く農家4人兄妹の末娘として生まれ、八尾で育つ。
八尾での生活は大変そのもので、髪結いさんの所で丁稚奉公していたそうです。

20代前半の時に、鹿児島から働きにきていた祖父が一目惚れして、結婚。
大阪→山口→東京と2人で移動し、4女1男に恵まれ、武蔵境の地で終戦を迎えた。
戦後1955年世田谷に出て、夫と2人して歯科院を開業し、盛り上げる。
明治40年生まれの祖父が86歳で他界する3ヶ月前まで、共に働く。
最期まで世田谷に居た人でした。


振り返ると、私には欲のない人に映ります。
「ばあさんは、夜の夢にはどんな夢が多いの?」と聞くと、「散歩している夢」とのことだった。
孫の私からすると、本当にこのままの人生を歩んだ人に映ります。

 しかし、彼女と同世代に男として生まれていたら、
私は生き残る自信はないですね〜。
私なら、満州か台湾で死んでいると思います。
あの激動の時代をよく、くぐり抜けて下さいました。


20歳の頃、私が最大の試練を迎えている頃も、そばにいてくれた人でした。
そして私の幼少期、両親が険悪の時も、
愛を注いで守ってくれた存在でした。
あなたに危機をことごとく守られたからこそ、私の命が今あると思っています。


この夫婦は、死に際が綺麗でスルッとしています。2人とも生まれ方が良かったのでしょうね。

前の晩、危篤の通知が来る頃は、やたら眠くて。
普段寝ない時間に寝ていました。
「気が通じている仲だと、寝落ちてしまい死に目に会えないことが多い」
と聞かされてきましたが、納得できる体験でした。

通夜などがありましたが、仕事柄まともには出られませんでした。
人の死を弔っている時間もないのは、戦場さながらだよな。
常在戦場、他人さまに理解を求めても仕方ないことですが、
これがあなたから頂いた私の命の今の飾り方です。
嫁さんのご家族には理解されないと思うので、
今後は少しは妥協しないとな、とは思いますが。

恩師がそうだったように、生きる者のためにのみ、
この人生は使うと決めているので、自分のことはまずは後です。
私が逝く時もそうして欲しいし、もう話すべきことは話したしね。

まあぁ、夢の中か墓で、ゆっくり話そうよ。今年話せなかった分をもね♪
肉体を脱ぎ捨てた状態なら、不便なく色々話せるでしょ、ばあさん。

本当にありがとう。
そして、その薫陶を胸にこれからも生きて行きます。

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(写真は今年の元旦です。心臓に来ていることを示している体と顔ですね。
ご遺体を見たとき、心臓が骨盤に下げられていることを示していました。
その時は、苦しむ暇もなくいつの間にか逝けたのでしょう)



(合掌)



吉田直樹  拝