整体師Rのスピな独りごと

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すべてのひとに愛とひかりを♪

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先日、知人からちょっぴり衝撃的な実話を聞きました。

 
『この間、花子さん(仮名)という方が白内障の手術を受けたのですが、医療ミスで目が見えなくなってしまったそうです。
 
花子さんは医師を恨んで塞ぎこんでいたみたいですね。
 
ところが、あるとき
 
「そういえば、すごくお世話になっていた◯◯さんに近ごろまったく顔を出してなかったから、会ってお詫びをしよう」
 
と会いに行ったり
 
「手術をしてくれたお医師さんも好きで失敗したわけではないのだから、もう許そう」
 
と決心したりしました。
 
すると不思議なことに、失明したはずの目が徐々に見えるようになってきて、今では視力がほぼ回復しているそうです』
 
というような内容のはなしでした。
スピリチュアルでは、私たちの霊性や魂、精神の縮図が肉体であると考えられています。
 
なので、自身の魂や精神に不調和(真理から外れた状態)がおきると、その周波数にあった出来事が肉体にも引き寄せられます。
 
そして《気づき》により魂や精神の不調和が解決すると、縮図である肉体も整ってくるのでしょう。
 
花子さんの場合、心の目を開眼させるために肉体の目が見えなくなるという出来事がおきたのかもしれませんね。
 
そして「お医師さんを許そう」と心の目が大きく開いたときに肉体の目も回復したわけですから、ひとの魂は肉体を借りてこの世へ学びにきているのだなと感じます。
ハワイのホ.オポノポノでは
 
ありがとう
ごめんなさい
許してください
愛しています
 
という言葉を唱えますが、花子さんの場合はお世話になっていた人に
 
「いつもありがとう。なのにご無沙汰してごめんなさい」
 
と伝えに行ったり、恨んでいた医師を「許そう」と決心したりするなかで、真理である「愛」を深めたのでしょうね。
そういえば15年くらい前に、スピリチュアルで有名な江原啓之さんが『シルバーバーチの霊訓』という本がいいと言っていたので読んでみました。

この本は、1920年ごろからイギリスの青年を霊媒として現れた高級霊「シルバーバーチ」とのやり取りが書かれた名著です。
 
そのなかにヒーリングについて記されている部分があるのですが、
 
「ヒーリングによって相手の体を治すだけでは不十分で、そのことにより相手の魂の琴線にふれ、魂を目覚めさせなければ意味がない」
 
みたいなことが書かれていました。
 
ふつうならヒーリングをして心や体が軽くなればいいのかなと考えますが、そのような表面的なものではなく、本当のヒーリングは魂の琴線に触れて、その魂を目覚めさせることが目的のようです。
 
そして、魂の目覚めは「気づき」によってもたらされるものだと私は思っています。
 
花子さんも、相手を許すという大きな「気づき」によって魂が目覚め、そして肉体の目も回復したわけですから。
 

なので、心やからだの健康にたずさわる人は、魂の琴線にふれるような気づきを相手に与え、そして魂の成長を促すことが本来の使命なのかもしれませんね。

私たちは霊性や魂を向上させるために、ここに産まれて来たのですから。
 
 

ちょうど一週間まえの月曜日、外出先でマクドナルドに入ったら、いきなり案内番号が444(エンジェルナンバー)でした。
 
 
4を見ると「縁起がわるい番号だな~」って感じるひとは多いかもしれませんね。
 
 
でも、近頃は時間をふと見ると11:11とか2:22とか4:44とかよく見るので、改めて意味をしらべてみました。すると444は
 
「たくさんの天使が見守っていて、サポートしていますよ😇」
 
みたいな意味があるようです。
 
 
と、書いているときに台所へいくと
 
浄水器の数字が444にポーン
 
皆さんもゾロ目を見たら
 
「エンジェルナンバー+ゾロ目(222とか)」
 
で検索してみると楽しいかもしれませんね。
 
 
話はかわって4日まえの金曜日、この日は都心に仕事があって歩いていると、黒い羽根が一本落ちていました。
 

以前にもブログで書きましたが、黒い羽根は先ほどのエンジェルナンバーと同じく「守護されていますよ」という意味があります。(重ね重ねありがたいな~ニヤニヤ
 
 
そして仕事をしたあと、午後からは久しぶりに
 
「最近、長谷寺の観音さまに会いにいっていないから行こうかな~」
 
と直感的におもったのですが、なぜかその日は新宿に映画を観に行ってしまいました。
 

と書いていたら、いきなり壁からドンという謎の音がしたので(壁ドンじゃないよ)きっと「長谷寺に行くといいよ」というサインかも。
 
 
話を戻して、新宿で映画を観ていたら途中ですごくお腹が痛くなってしまい、ガマンするのが大変だったり

 
スマホにお客さまから連絡があったので、映画館のそとに出て話をしていると
 
「つぎの゛青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない”の上映は・・・」
 
というムチャクチャ気まずいアナウンスが流れてきたり

 
泉屋のクッキーが欲しくて新宿にある店を検索したのですが、行ってみたら店や商品が無くなっていたり

 
ひとにプレゼントしようと思っていた時計が新宿の店にあるとwebにあったので行ってみたら無かったりと、何だかかみ合わない新宿dayでした。
 

そして家に着いたらなんと、玄関の扉の下に蛇がいるではありませんか~滝汗
 
 
でも、蛇ってどちらかと言えば金運や幸運、神の遣いまたは龍のようなイメージがありますので、結構ラッキーなのかもしれません。(イタズラしなくてよかった)
 

ただ家は2階だし、まわりに草が生茂っている訳でもないから、なぜ蛇がいたのかは疑問ですが。

(以前にブログで書いた龍のペンダントのことをつい思い出してしまいました)
 

関連記事
 
新宿へ行った2日後、「最近どうしているかな~」とおもっていたお客さまから連絡がありました。

そのときに、たまたまこの方が書いているブログが目についたので見てみると、
 
「長谷寺に行きたくなって、行ってきました」
 
みたいなことが書いてありました。
 

そのあと、別のお客さまを整体しているときに話をしていたら
 
「このあいだ長谷寺に行ってきました」
 
と言われて
 
「金曜日に長谷寺の観音さまを思い出したのは偶然ではなくて、やっぱり行ったほうがいいんだな」
 
とおもいました。
 
おそらく近々行くことになるでしょうね。
 
 
そういえば、1か月くらい前に整体院のお客さまから
 
「今朝、家のなかで転んでしまい、体をつよく打ち付けてしまいました」
 
という電話があって、そのあと偶然にも身内が倒れて頭を打ってしまい(2人とも無事でしたが)、そこからシンクロが連発したことがありました。


今回も先ほど書いたこと以外に、さらに2,3の偶発的な出来事がありました。
 

皆さんはこのような連鎖が続くことってありますか?

やはり今はアセンション(次元上昇)の時代だからなのかな。

今さらですが今年のGWは秩父に行ってきました!3年連続ですね。

 

 

思い起こせば2年前の春、わたしはレンタルビデオ店で

 

「超ムーの世界」

 

 という、いわゆる雑誌「ムー」関連のDVDを借りて観ていました。

 

 

そのときに、秩父で有名な三峰神社が紹介されているのを見て

 

「いつか三峰神社に行きたいな」

 

と感じました。すると、数日後に身内から

 

「今度、秩父の駅に<祭りの湯>という温泉ができるんだけど、GWにみんなで行かない?」

 

と誘われて、ちょっとびっくりでした。

「西の比叡山、東の秩父山」

 

と、たしか超ムーの世界では言っていたように思いますが、とても楽しみでしたね。

 

 

そして、この年のGWは秩父に行く前日と二日前にスピリチュアル系大手のV社でS氏のセミナーがあったので参加してきました。

 

 

どうもS氏は左の頭が宇宙船と繋がっているらしく(と本人が言っていた)、S氏の後ろの壁をじっと見ていると左上あたりにグレーの宇宙人らしき影が2パターンくらい浮かびあがっていて、すごく気になりました。

 

 

この年のGWはエネルギーが異様に高かったのか、S氏が

 

「外に龍の雲が出てますね」

 

と言ったので外を見てみると、確かに2、3個出ていました。

 

そして、セミナーの最後にはUFOが・・・

 

 

この日の夜は、いつもなら寝てしまったらほぼ起きないわたしが何回も起きてしまいました。(エネルギーがやたらとみなぎる感じだったので)

 

 

そして翌日、秩父に向かう電車の窓からは、やたら龍や鳳凰の雲が見えました。そして、秩父に着いてからもかなりの龍と鳳凰の雲を見ることができました。

予定では、一日目に長瀞(ながとろ)という川の湘南のようなところに行って、2日目にお目当ての三峰神社へ行こうと考えていました。


しかし、年配になった身内が1時間半もバスに乗って三峰神社へいくのは大変だなとおもい

 

「三峰神社には行かなくても大丈夫だよ」

 

とわたしは言いました。

 

ところが

 

「じつは近所のひとが三峰神社に毎年行っていて、そのときに必ずお札を買ってきてくれたの。でも、そのひとが昨年亡くなられたから、今年は自分で買いに行きたいんだけど」

 

と言っていたので、2日目は三峰神社へ行くことになりました。(身内とまたシンクロしてしまう小生あせる

 

 

ちなみに秩父で泊まった夜も、朝までに何回もエネルギーがみなぎっているような感じがして起きてしまいました。

 

 

そして、休み中はそれほど食べた訳でもないのに、10年間まったく変わらなかった体重が3キロも増えていました。(いったい何が搭載されたのだろ~びっくり

 


 つづく・・・かな?

 

今年も早いもので、あっという間にゴールデンウィークの前ですね。

年が明けてからは出川哲朗さんと日本の神様にまつわるシンクロ二シティが個人的にいくつか続いていましたが、そのうちのひとつに伊弉諾いざなぎ)神宮のシンクロがありました。

 
詳しくはこちらを是非よんでくださいませ。
 
出川さんシンクロ関連
 
本当は1月に伊弉諾神宮へ行きたかったのですが、天皇が退位される前に何とか行けてよかったです。
(毎度のことですが、神様や神社を撮影して載せることにちょっと抵抗があったので、飛行機を載せてみました
 
 
伊弉諾神宮といえば、日本の国土を産み出しアマテラス(天照大御神)やスサノオ(素戔嗚尊/須佐之男命)をはじめ多くの神々を産み出したイザナギ(伊邪那岐/伊弉諾/伊耶那岐)神が祀られている神社です。
 
 
そして、この神社は創祀の起源とする最古の神社で、兵庫県下で唯一の「神宮」だそうです。
 
 
しかし伊弉諾神宮はもちろんですが、淡路島自体がとても気が軽やかで心地よかったですね。
 
 
都会にはさまざまな電波や人の想念などが渦巻いているんだなと、つくずく感じさせられます。
 
 
せっかく淡路島に来たのだから他にも近くで観れるところはないかと探していたら、スサノオ尊が祀られている小さな神社を見つけました。
 
 
「でもスサノオ尊は有名な神社でも祀られているから、いつか大きな神社でお参りができたらいいな」
 
 
と思い、とりあえずその神社に行くのは止めて、スマホでスサノオ尊が祀られている有名な神社を一応見てみました。
 
 
すると島根(出雲)の熊野大社須佐神社などが出てきました。
 
 
そんなこんなで伊弉諾神宮だけお参りして、淡路島から空港のある神戸へと戻ってきました。
 
 
帰りの伊弉諾神宮から神戸までのバスは途中下車ができないので、せっかく目の前にきれいな海があっても浜辺に行くことができなかったり、途中に名所があっても見れなかったりしたのはちょっと残念でした。

その分、神戸に着いたら疲れてはいましたが飛行機の時間までは港を散策しました。
 
 
疲れていたせいか神戸でスイカを落としてしまったのですが、西日本ではスイカを止めたり再発行することはできないんですね。勉強になりました。

今年もまだ4ヵ月しか経っていませんが、川崎大師の帰りにお財布を、伊弉諾神宮の帰りにスイカを落としてしまい、すごい厄落としができたなと我ながら思ってしまいますあせる(とはいっても、どちらも出てきましたが)
 
川崎大師でお財布を落としたときの話
 
 
そして東京に戻ってきたわたしは、またもやその日の夜に出川さんの「充電させてもらえませんか」を偶然観ることとなりました。(数日前に放送されたものが録画してあったみたいですが)
 
 
出川さんが訪れた場所を見てみると、今回は「熊野古道と熊野三山」でした。
 
 
ちなみに熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を言います。
 
 
「そう言えば、さっき淡路島でスサノオ尊が祀られている神社をしらべたときに熊野大社があったような・・」
 
 
熊野大社と熊野三山は島根と和歌山で別々の神社なのですが、熊野三山のひとつである「熊野本宮大社」は熊野大社から勧請して造られたようです。
 
 
さらに調べてみると、熊野本宮大社・この度お参りに行った伊弉諾神宮・元伊勢外宮・伊勢神宮内宮(わたしの自宅では伊勢の御札を長年祀ってます)・伊吹山を結ぶとペンタゴン(五角形)になり、そして内側をつなぐと五芒星(ごぼうせい)があらわれて、その中央には平城京が位置しているようです。
 
 
ちなみに熊野本宮大社にも熊野大社と同じくスサノオ尊が祀られています。
 
 
さらに熊野本宮大社は、古事記で出てくる八咫烏(やたがらす)という3本足のカラスで有名な神社らしく、昨年のブログで書いた黒い羽根のことがふと思い出されました。
 
黒い羽根についての記事
 
 
「やはり次は熊野三山かな」
 
 
今回も出川さんとはご縁を感じてしまう小生でした。
 
スピリチュアルでは「今」を生きることの大切さが、たびたび説かれていますよね。

科学的にも

「未来や過去は幻想であり、実際は今しか存在していない」

「過去も未来も現在も、すべてはおなじ空間のなかで同時に存在している」

という見方があります。


「それでは何故、私たちには過去とか未来とかいうものがあって、どうして時が流れているように感じるのだろう?」

という方もいるでしょう。


それについては「スポットライト理論」というものがあり、わたしの解釈では次のようになります。


おなじ空間のなかにパラパラマンガのような一コマ一コマの場面が無数に存在しています。


その一コマ一コマは一ミリも動かないのですが、スポットライトが次から次へとその一コマ一コマにフォーカスを当てていくため、時が流れているように感じるそうです。


※上の図にある時間は分かりやすくするために書いただけです。尚、一コマ一コマに日時という流れを付けていくのは人間特有の概念であり、本来はおなじ空間のなかに無数のシーンがただ同時に存在しているだけです。


まあ、難しいことはさておき

「ずっと先のことばかりを考えてその時々を犠牲にしてきたけど、結局はうまくいかなかったな」

「こんなことなら、あのときにやりたいことを好きにやっておけばよかった」

なんてことはありませんか。


先のことばかりを損得勘定とかエゴとかでいくら考えても、自身の魂は本当に何が必要かを知っています。


そして必要な物事に出くわすと、ワクワクしたり、楽しい気分になったり、心地よかったり、やりたいという気持ちがつよく現れたりします。


またインスピレーションやシンクロニシティとして、それを察知することもあるでしょう。


これらの感覚は心理学でいう「集合意識」というところからもやってきます。


集合意識とは、地球や宇宙に存在するすべての意識がつながる場で、潜在意識(自覚できない意識)よりもさらに深いところにある意識です。


そして、集合意識にある一人の意識が何かを望むと、集合意識にある別の意識がそれに反応して偶然の出来事(シンクロ二シティ)が起こることがあります。


また、ハイヤーセルフという高次元にある自身の意識が、いま必要なことをインスピレーションとして与えてくれたりします。


しかし私たちは、いくらインスピレーションやシンクロニシティ、ワクワク、快感覚などのGOサインを察知したとしても、それが常識などから外れていると、安全に暮らしたいエゴが思考を使ってちがう方へ行かせようとします。


本来ならば、集合意識や高次元からのGOサインに従ったほうがスムーズに望むほうへ行けるのだけど。


また、常に先のことを心配して今を犠牲にしてばかりいると、未来に対する「恐れ」の波動とガマンばかりしている「苦しみ」の波動が増幅して、結局はその波動に見合ったネガティブな出来事を引き寄せてしまいます。


ですから、常識という過去のせまい概念にはとらわれないで、集合意識や高次元からくるGOサインに勇気をだして従ってみてはいかがでしょうか。


そして先のことを心配するのではなく、1日1日を楽しく充実させることで貴方のエネルギーは整い、素敵な未来を引き寄せることができるでしょう。

最近引っ越しをしました、といっても一階の部屋から二階の部屋に移っただけですが・・

 


なのに不動産屋さんと引っ越し屋さんだけで50万くらい払ったような笑い泣き

 

 

しかし、おなじ建物のなかでも部屋によって気というかエネルギーというか感じが全然ちがいますね。引っ越して大正解でした。

 

まさか住環境でこんなに気分が解放されるとは。

 

 

そんな訳で、ここのところ自分の家や整体院の断捨離をかなりやっていました。

↑うちの嫁です。(ウソですアセアセ


すると先日、家の片づけをしていたときに以前「片づけ」で有名になった近藤麻理恵(こんまり)さんの本が出てきました。

 

 

「片づけをしているときにこんまりさんの本が出てくるとは・・忘れてたけどかなり流行ったよな~」

 

 

そしてつぎの日の朝、何気なくスマホの画面を見ると

 

「こんまりレッドカーペット~」

 

みたいなニュースのテロップがあってビックリしましたが、断捨離が大切なことをシンクロによって痛感しました。

 

 

そして、断捨離をすると何だかよい効果を感じることができます。

 

 

たとえば、引っ越すまえの寝床はゴチャゴチャしていてスッキリとした睡眠がほとんど取れませんでした。

 

 

しかし、新しい寝室にはものをあまり置かないで空間を広くしたところ、睡眠の質が格段に上がりました。

 

 

ちなみに、引っ越したばかりで部屋にものがまだ置いていないときは最高にスッキリと寝れました。(たしか以前の引っ越しのときもそうでしたね)

 

 

ただ、自分の気(波動や周波数)が高い方ほど部屋がスッキリしていたほうが落ち着くのでしょうが、反対に気が高くない方は多少部屋がゴチャゴチャしていたほうが落ち着くかもしれません。

 

 

よくも悪くも、自分の波長レベルにあった場所でないと人って違和感を感じますから。

スッキリと余計なものが置いていない空間は気の流れがよくて、ゴチャゴチャしている空間は気が滞ったり不要なものが低い気を発したりします。



 わたしのクライアントで風水をかなり研究した方がいましたが、結局はきちんと掃除や片づけをして家をキレイにしておくことに尽きると言っていたことが思い出されます。

 

 

運気も気(エネルギー)ですからね。

 

 

また、片づけといえば物質的なものだけだと思うでしょうが、情報や知識、思考なども断捨離するといいですよ。

 

 

たとえばスマホやパソコンのアイコン、アプリ、ブックマーク、メール、メルマガ、電話帳など、極力必要なものしか残さないようにすると、頭のなかにふしぎと余裕(空間)ができます。

 

 

情報や知識、もの、その他不要なものをどんどん断捨離することで頭のなかが軽くなります。(パソコンも整理するほど動作が軽くなりますよね)

 

 

そして不要なものが少ない分、よけいなことに振り回されず大事なことにフォーカスする力がつよくなります。(ようは成功しやすくなる)

 

 

また、ずっと囚われていたことや心配事、違和感を感じながらも手放さずにいたことなど、自分を重くしていた思考を断捨離すると空いたスペースに新しい必要なことが入ってきやすくなります。

 

 

瞑想やリラックスをしているときにインスピレーションが湧きやすくなると言われますが、頭のなかを断捨離してスッキリさせておくこともおなじことでしょうね。

 

 

頭のなかを空にするほど、閃きや心の奥にある本質を感じやすくなりますから。

 

 

スピリチュアルの世界ではよく自身のハイヤーセルフと繋がるとか、高次元の情報を得るとか言いますが、頭のなかが情報や思考、心配事などで溢れていたら、かすかに感じるハイヤーセルフや高次元の声を捉えることは難しいですよね。

 

 

ですから、ものだけではなく頭のなかの大掃除もときには必要ですね。

 


人間関係の断捨離も効果的かな。(まずはいらない名刺の整理から)

 

前回のブログでは、出川哲朗さんの

 
「充電させてもらえませんか?」
 
という電動バイクで旅をする番組を、1月中に偶然2回も観てしまい、しかもそれが神様にまつわるシンクロ的な内容だったことを書かせてもらいました。
(詳しくは前回のブログを読んでね)


そうしたら、2月になってまた
 
「充電させてもらえませんか?」
 
のシンクロがあったので、今回もまたシンクロの話になってしまいますが、どうかお付きあいくださいませ。
2月23日の夕方、整体院でお客さまと話をしていたら、昨年わたしが参加する予定だったイベントの話になりました。
 
 
そのイベントというのは、春分の日にあるヒーラーさんが富士山でスピリチュアルなイベントを開催するというものでした。
 
 
申し込みを済ませて当日をむかえたのですが、なんとその日に限って富士山に大雪が降り、イベントは中止になりました。
 
(その周辺の日はいい天気だったのに・・)
 
 
実は、イベントに申し込んだあとから妙な違和感があったので、中止と聞いてなんだか複雑な気持ちでした。
 
 
そして、あとでそのことを直感能力のつよい知人に話したら
 
「富士山は登るところではないかもね」
 
と言われてハッとしました。
皆さんはどうかわかりませんが、わたしのなかで富士山は神様という位置づけになっています。
 
 
そこらへんは人それぞれ認識がちがうでしょうから、あくまで「わたしのなかでは」としておきます。
 
 
そして、これも「わたしのなかでは」なのですが、以前は神社や神が宿るところを勝手に撮影するのは失礼だとおもい、極力そのようなところは撮影しないようにしていました。
 
 
「撮らせてもらいます」と挨拶を先にすればいいのかもしれませんけどね。
 
 
なので最近では、どうしても撮りたいところは挨拶をしてから撮らせてもらうこともあります。
 
 
それはさておき、数年前に江の島へ行ったとき、海の向こうに見える富士山があまりにもキレイだったから、カメラで撮ったことがありました。
 
 
そして撮った画像を確認してみたら、なんと富士山の右上に黒い雲みたいなものが写っていました。
 
 
ちなみにこの日は雲ひとつない晴天でしたし、またカメラに異常があったりレンズが汚れていたりという事もありませんでした。
 
 
念のためにちがう場所からも富士山を撮影したのですが、やはり右上に黒い雲みたいなものが写ってしまいます。
 
 
この画像にどんな意味があるのかは分かりませんが、それを見たときに
 
「富士山は神様だから、挨拶もしないで勝手に撮影したらよくないよな」
 
とおもい、撮った画像を破棄しました。(ちょっと怖かったのもあるけど)
 
 
なので知人から「富士山は登るところではない」と言われたとき、わたしは神様である富士山を登ろうとしていたことに気づき、大雪で中止になったのは私的には必然だったように感じました。


でも、これはわたしの中のルールであって、皆さんは自分の考えに従ってもらえればいいと思います。
 
 
そんなことを思い出しながら、わたしのスピ事情を知っているお客さまと
 
「もう一年ちかく経つんですね~」
 
「あの日だけ、なぜか雪が降ったんですよね~」
 
「ハハハ~」
 
と話をしました。
 
 
そして、このお客さまが帰られたあとは出張治療へ出かけました。
早速、家にうかがって施術をはじめたのですが、そのときに家の方が気をつかってテレビのチャンネルを替えてくれました。
 
 
そして画面に映しだされたのは、なんと出川さんの「充電させてもらえませんか?」です。
 
 
さらに、画面の上部には
 
「絶景だよ富士山!東海道めぐり・・・」
 
と書いてありました。なんと先ほどお客さまと話をしたばかりの富士山です。
 
 
この2ヵ月で「充電させてもらえませんか?」を偶然3回も観てしまい、しかもすべての舞台が、直前にわたしが気になっていたり人と話していたりした場所です。(しかも神様に関わる)
 
 
もうわたしには、出川さんが神の遣いで旅をしているようにしか見えません。
 
 
ちなみに、先月おきたシンクロのときは
 
「もしかして出川さんは神様なのかな?」
 
と思いましたが、その直後にふとスマホを見ると
 
「出川哲朗さん神対応」
 
というニュースが出てきたので、ちょっとびっくりしました。
 
(よく見ると、出川さんはビリケン様などの神様にも似ているような)
話を戻しますが、出張先で整体の施術をしながら
 
「もし出川さんがゴールする姿を観れたら、きっと富士山が呼んでいるサインだろうな」

 
とおもいテレビを観ていたのですが、施術中だったこともあり、富士山が映っていた場面はすべて見逃してしまいました。
 
 
代わりに入浴シーンなどはしっかり観れたりして。そういうときは大体あやしい展開になってくるような・・
 
 
そして番組のラストは、なんと夜の峠でバイクの充電が切れたために強制終了。このような終わりかたは珍しいみたいですね。
 
 
昨年の大雪につづき、今回は強制終了。やっぱりわたしは富士山に登らないほうがいいらしい・・
 
 
宇宙とのポータルとか、神様とかいろいろ言われのある富士山ですから、お呼びがあるまでは下から崇めていることにします。
 
 
ところで「充電させてもらえませんか?」を観たつぎの日に、朝おきて床を見みると、なぜか↓が落ちていました。
(あることすら忘れていましたが・・)
 
昨年から富士山のことは気になっていましたが、このアセンションの時代、富士山には霊的に大きな役割があるようにおもえて仕方のない小生でした。
 
 
 

今回は1月に起こった『日本の神さまにまつわるシンクロニシティ』について書かせていただきます。

 

 

前半は年明けに書いたブログと重なる部分もありますが、とりあえず書いておきますね。

2019年の元旦の朝、プレアデスの聖地である松島に行って初日の出をみました。



松島に行こうか淡路島に行こうかと通勤電車のなかで考えたのですが、電車から降りた瞬間、なんと松島のポスターがバーンと貼ってあったので松島にしました。

 
 
そして松島からの帰り道、以前に近所のコンビニで買おうかと悩んでいた古事記の本が、たまたま仙台のコンビニでも売っていました。
 
 
この日は、その本がとても気になったので購入を決意。
 
 
東京に着くまで読んでいたら、アマテラス(天照大御神)やスサノオ(須佐之男命)の産みの親であるイザナギ(伊邪那岐神)とその妻であるイザナミ(伊邪那美神)が、おのころ島に降りたって淡路島を皮切りに日本列島を作ったことが書かれていました。
 
 
誤解のないように言っておくと、アマテラスとスサノオはイザナギとイザナミの二神から産まれたのではなくて、イザナギが左目を清めたときにアマテラスが、鼻を清めたときにスサノオが誕生したと言われています。


その辺のことは、古事記を読んでもらうと面白いですよ。
 
 
ちなみに、イザナギとイザナミは伊弉諾(いざなぎ)神宮とおのころ島神社に祀られているので、やはり次は淡路島へ行こうかなとおもいます。
 
 
そして翌日(1月2日)の朝、何気なくテレビをつけてみると、出川哲朗さんが電動バイクで旅をする番組『充電させてもらえませんか?』がやっていました。
 
 
しかも、舞台は淡路島。
 
そして、伊弉諾(いざなぎ)神宮にも立ち寄っていました。
 
 
やっぱり、つぎはシンクロにしたがい淡路島だな~と決意するわたし。
 
 
日にちは1月25日と、わたしのキネシオロジーテスト(筋反射テスト)では出ました。
 
 
カレンダーを見てみると、その日は初天神と書かれていたので、まさにぴったりな日です。
 
 
しかし、1月は松島まで行ったり風邪でめずらしく仕事を休んだりしていたので、淡路島に行くのはすこし延期することにしました。
 
そして1月19日、ふだんは職場からそんなに早く帰ることはないのですが、この日はちょうど早く帰れそうだったので、いつもより2時間ほどまえに帰宅しました。
 
 
家についてテレビを観たら、なんと出川さんの『充電させてもらえませんか?』がまたやっていました。
 
「今度はどこに行くのかな?」
 
すると、どうやら出雲大社を目指しているようです。
 
 
出雲大社といえば、先日気になるブログがあって、その記事には出雲大社のオオクニヌシ神がアマテラス大御神に国を譲ったときのことが書かれていました。


ただ、その方の霊的な見解がちょっと意味深なものだったので気になっていました。


そのようなときに、出川さんが例の番組で出雲大社を目指しているのはちょっと驚きでした。



そして番組を観ていると、時間内に出雲大社へ着くことができるのかと出川さんが心配している様子。
 
 
もし出雲大社に呼ばれているシンクロならば、きっと出川さんは1月2日の伊弉諾神宮のときのようにすんなり到着してくれるはずだけど・・
 
 
そして、引き続きテレビを観ていたら「ピンポ~ン」と玄関のほうから音がしました。
 
 
知人が家に来ることは滅多にないのですが、何故かこのタイミングで知人が訪ねてきました。
 
 
そして1時間くらい話をしてから、知人が帰ったあとに
 
「そういえば出川さんの番組どうなったのかな?」
 
とおもってテレビを観てみると、番組はもう終わっていて、出雲大社に到着する出川さんを見ることはできませんでした。
 
 
「出雲にはなんかありそうだけど、呼ばれている感じではなさそうだな・・」
ところで、出雲大社に祀られているオオクニヌシ神(大国主神)にはオオクニタマ大神(大國魂大神)という別名があります。


そしてオオクニタマ大神は、東京の大國魂神社に祀られています。
 
 
そういえば昨年のはじめ頃、お墓参りへ行った帰りに
 
「電車を乗り換えたら、高幡不動尊に行けるな」
 
とおもい急遽、JRから私鉄に電車を乗り換えようとしたことがありました。
 
 
ところで、なぜ高幡不動尊に行こうと思ったかといえば、この年のはじめに高幡不動尊のシンクロがいくつかあったからです。
 
 
そして私鉄の駅に向かって歩いている途中、目の前に大國魂神社の看板が突然あらわれました。
 

大國魂神社といえば、整体院のお客さまから話は何度か聞いていたので、早速行ってみることに。
 
 
神社に着くと、「今日はここへ来るためにお不動さまがアシストしてくれたんだな~」と直感的におもいました。
 
 
チャネリングをしてみると、この日が大國魂神社に来るタイミングだったことを確信し、高幡不動尊には後日あらためてお参りへ行くことにしました。
 
 
余談ですが、この2か月後に海外のチャネリングの第一人者が偶然にも高幡不動尊に来るみたいだったので、お参りはその日に行くことにしました。
 

実は前回この方が来日したときにセッションを受けたばかりだったので、このタイミングで高幡不動尊に来られるのは驚きでした。
話を戻しますが、『充電させてもらえませんか?』で出雲大社が放映されたつぎの日、オオクニヌシについて調べてみました。


すると、オオクニヌシはアマテラスの弟であるスサノオの系列であり、しかもスサノオの娘であるスセリビメと結婚していたことが分かりました。
 
 
そのあとすぐに近所のコンビニへ行ったのですが、ふと本のコーナーを見てみると「凄ノ王(スサノオ)」というマンガが置いてありました。
 
 
「このタイミングで凄ノ王(スサノオ)とは・・」
 
 
凄ノ王というマンガは昔「デビルマン」を書いていた永井豪氏の作品ですね。
 
 
そして、なんの縁だかデビルマンの主人公の名前は不動明(フドウアキラ)です。
 
 
ちなみに不動明王は大日如来の化身なので、神さまではなくて仏さまなのですね。
 
 
なのに、今回は神さまのことでお不動さまにかなりアシストしていただいている気がします。
 

でも、これら一連のシンクロはなんでしょうね。
天界で起こったことが徐々に地上でも起こるというか、天界と地上は映し鏡のような関係だとよく言われます。
 

確か10年くらい前に

「まずは天界の掃除(浄化)がはじまり、そのあとに地上の掃除(浄化)がはじまる」

みたいな啓示が書かれている本を読みましたが、きっと今は天界の浄化がかなり進んでいて、そのあとに地上が浄化の真っ只中に入るのではないかと個人的にはおもっています。


また古事記によれば、神々の世界にもネガティブな出来事はあったようなので、それらが浄化されているのかもしれません。
 
 
とくに天津神(アマテラスをはじめとした高天原の神)と国津神(スサノオやオオクニヌシなどの土着の神)がさらに調和されていくような。
 
 
古事記は当時の天皇の命令で書かせたものだから、どうしても天津神と国津神の記載に若干の偏りがあるのではないかと考えている人たちがいます。
 
 
また、当時の出雲を中心とした天津神と国津神の関係はうまくいっていたのかと疑問をいだいている人たちもいます。
 
 
 
もしかしたら、それら天界の浄化はすでに終わっていて、いまが地上の浄化の真っ只中という可能性もあります。
 
 
ところで、今年は天皇交代という日本神界にとっても日本国民にとっても大切な年ですよね。
 
 
このような年のはじめに、アマテラス(我が家でもお祀りしている)と関係が深いイザナギ、スサノオ、オオクニヌシのシンクロニシティを、お不動さまや出川さんのアシストのもと受け取ることができたのは、なにか意味があるように感じます。
 
 
きっと日本神界のアセンション(次元上昇)→日本国民のアセンションという流れに紐づいて起こったシンクロのように感じますので、今後の流れもぜひ見守っていきたいとおもいます。
 

スピリチュアルでは『愛と光』という言葉がよく使われます。

 
 
そして、愛と光の意味がすこしづつ分かってくると、それをより求めるようになります。
 
 
たしかに愛と光はスピリチュアルの本質であって、ヒーリングやチャネリング、瞑想などはそのための方便にすぎません。
 
 
でも愛と光をつよく求めすぎてしまうと、その反動から『闇や悪などはあってはいけないもの』として、それらを頑なに排除しようとする人もいるでしょう。
 
 
ですが、それは光と闇、愛と憎しみ、善と悪という分離感をより深めてしまうことになります。
 
 
本来ならば、愛と光を自らが示すことで、他者もその光に包まれ感化されていくものだと思います。
 
 
そして、他を包みこむ光のなかには 闇や悪、憎しみへの嫌悪感はなく、ただ相互理解という調和があるだけです。
 
 
許したり認めたりすることで、愛と光はより輝きを増していくのでしょう。
 
 
なのに愛と光を求めるあまり、闇や悪を排除しようというのは本末転倒なこと。そして、これらを排除しようとするのは、エゴの部分で不安や恐れを抱いているからです。
 
 
でも、闇や悪に対して不安や恐れを抱いてしまうと、意識がより闇や悪にフォーカスしてしまうから、結果的にはそれらを引き寄せてしまうことになります。
 
 
また、自分は『愛と光の存在でなければならない』と感じて高いところを目指そうとすれば、当然ですが自分には愛と光(またはスピリチュアルな能力)がまだ足りないという欠乏感を抱くこともあるでしょう。
 
 
ですが欠乏感を動機とした行いは、やればやるほど意識が欠乏にフォーカスしてしまうから、結果的には欠乏感がより強くなってしまいます。
 
 
ですから愛と光を求めるあまり、これらの罠にはまっていないか、一度確めてみることは大切なことかもしれませんね。
 

1月4日、この日は直感能力のつよい知人にすすめられて川崎大師に行ってきました。

 

 

例年ならば、その方が川崎大師に行ったあとに「身代りお守り」をいただくのですが、今年は自分で行ったほうがいいと何度か言われたので行ってきました。

 

 

ちなみに、わたしの実家は川崎大師から2キロくらいの所にあります。

 

この日は厄除けのお守りと御札を買いました。でも、今回は身代りお守りは買いませんでした。

 

 

それから4日後、滅多に仕事を休むことのないわたしが、風邪で何日か仕事を休むことに。

 

 

「今回は身代りお守りを買わなかったからかな・・」

 

 

でも数年間でてこなかった悪いものが、風邪によって出てきたのならば、むしろ必然というかいいことのようにも思えます。

 

 

そういえば、はじめて身代りお守りを知人からもらったときは、その日のうちに激しく自転車から落ちたのですが、まったくケガがなかったので驚きました。

 

 

厄除けの御札については、家に貼って瞑想をしたのですがなんだか感じがよかったですね。

 

 

そのため、25日にもう一度川崎大師に行って厄除けの御札をもう一枚と今度は身代りお守りも買ってきました。

 

 

身代りお守りについては、本来ならば出てくるはずの業などが出てこない訳ですから、買わなくてもいいかなと思いましたが何となく買ってしまいました。

 

 

そして川崎大師をあとに、2時間ほど電車に乗って家の最寄駅に着いたとき、財布がなくなっていることに気がつきました。

 

 

「なぜ厄除けの御札を買いにいった帰りに・・」

 

 

でも、よくよく考えればお金はそれほど入れていなかったし、問い合わせたらキャッシュカードやポイント類も使われていなかったので、厄落としができたとおもえば悪いことではないような気がします。

 

 

また、厄除けの厄とは欲のことらしく、欲とはお金のこと。なので財布を落とすということは、やはり厄落としだったのかなと。

 

 

なんか、いいことのようにおもえてきますね。

 

 

財布をなくしたのは厄落とし効果。もし財布が見つかったときは厄除けのお陰ですね。

 

お守りについては、目的によって眷属的なものがあるらしく、わたしがはじめて身代りお守りをもらった日に自転車から落ちて無傷だったのは、わざとそういうところを見せられたようです。

 

そして、身代りお守りを買わなかったときに珍しく風邪で仕事ができなくなったのは、邪見にするとそのようなことがあるかもしれないと、くわしい方が仰っていました。

 

 

もしそうだとしたら、おみやげにお守りを買う場合、いいかげんに扱いそうな人にはあまり渡さないほうがいいかもしれませんね。

 

 

でも、これらのことは人によるかもしれないので参考までに。

 

 

そして、ここまで書いておきながら、先ほど財布が見つかったというハガキが警察署から届きました。

 

 

さすが厄除け川崎大師。