弔辞を述べるなら、
仏さまの方を向いて話します。
観音さまの前で、講演です。
いろんなところで話してきたものです。
ある方から
「高仁さん、長生きしてくださいよ。
もう、お酒も飲み過ぎないで」
86才になられたその方は、
健康で長生きすることが何より大切だ、と
思い込んでおられて、
そんな御歳になられても自分は死なない、と
思い込んでおられます。
「え?どうして
長生きすることが大事なんですか?」
「当たり前やろ!」
もはや、会話として成り立ちません。
「死」🟰「無」
自分が無くなるのが怖い?
そもそも「自分」とは?
私にとって最大の謎でした。
人生とは、気がついたら始まっていたのです。
そして、自分が存在する不思議。
そんな不思議と謎に驚きながら、
今日という新しい一日が始まりました。
身はたとひ
武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし大和魂
今日、私が死を目前にして平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環を考えたからです。
農事にたとえれば、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。
秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくり、村々には歓声が満ちあふれます。
そんな収穫期を迎え、その年の労働が終わったのを悲しむ者など、私は聞いたことがありません。
私はいま、30歳で生涯を終えようとしています。
いまだひとつも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ていて、惜しむべきことなのかもしれません。
しかし私自身について考えると、やはり花が咲き、稔りを迎えた、そんなときなのだろうとしか思えません。
なぜかというと、人の寿命には定まりがないからです。
農事が四季をめぐって、くりかえし営まれるようなものです。
人間にも春夏秋冬があります。
十歳で死ぬものには、その十歳の人生のなかに、おのずから四季があります。
二十歳には、おのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずから四季があります。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことにしかなりません。
百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはなりません。
私は三十歳ですが、四季はすでに備わっています。
花を咲かせ、実をつけています。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私にはわかりません。
しかしもし、みなさんの中に私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるでしょう。
みなさんも、どうかこのことをよく考えてみてください。
・・・吉田松陰の声が聞こえてきます。
毎日
お酒を飲むのが楽しみです。
思考が緩やかになって、
意識がクリアになってゆきます。
今日は、東京聖書塾
仲間に会えるのが楽しみ。
聖書を初めて身近に感じたのは、
36年前、糸川英夫博士のお宅にうかがった時です。
「聖書をキリスト教の経典だと思わないでください。
人類の最も古い知恵の書です。
ここに書かれた真理を受け取らないともったいないです」
そして、
「モーセという人類で最も偉大なリーダーから、
リーダーシップ論を学びましょう」
と、
お聞きして、衝撃を受けました。
糸川先生の弟子になると決めて、
イスラエルにも連れていっていただき、
実際に聖地を歩くとき、
自分がいかに何も知らないかということを知らされました。
人生というのは、想像以上に楽しいものですね。
ヨハネによる福音書の冒頭はこう始まります。
「初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つな かった。 」
この言葉から2000年経った今も普遍の真理です。
宇宙創造の仕組みですから。
言葉がすべてを創造し、
言葉に神が宿る。
口から出した言葉に、人はもう一度出逢うようになっているようです。
自分から発した言葉に神が反応して、
またその言葉を言いたくなる現象を起こしてくれるのです。
だから、
宇宙で一番素敵なことばは「ありがとう」ではないでしょうか。
「ありがとう」は、天国貯金となり、
溜まると天から降ってきます。
お金や財産になることもありますが、
お金では買えない温かな人間関係も天からのプレゼントですね。
よき友と旅を続けようよ。