幸せは

  気づいた時から

      始まる


  ほんとうは

    しあわせなんだけど


      さよならのあとに

         気づくの


  大野勝彦先生に書いていただきました。


   今日から熊本に入ります。

    大野先生とお会いするのは無上の喜びです。




  一緒にいるときには、

 いつの間にか「当たり前」になって

つい、嫌なところに目がいく


    でも、会えなくなって

   大切なことに気づく


 何遍もそんな痛みを味わいながら、

   私たちは、変容してゆく。


  出会うに時があり

    別れるに時がある。


  神のなさることはすべて

   時に叶って美しい。





人生の師のおかげで、
今日の私があります。

目をつぶって師を思う時、
面影とともに、
声が聞こえてきます。


天に住まいを移された、
師匠の教えを生きるとき、
師は、地上にも別荘を持って住まい、
今もなお伴ってくださるのを感じるのです。


伊勢の父、
中山靖雄先生

  「喜べば、
   喜びごとが喜んで、
   喜び集めて
     喜びに来る」

本当にそうです。

喜べることが来るのを待って、
喜ばせてもらおう、
誰かに機嫌をとってもらおう、
と、いう了見がよろしくありません。

そんなのまるで子どもです。

自立した大人とは、
自分で自分の機嫌をとれることですね。


糸川英夫博士の声。

「誰か人の頭の上のハエを追っていればいいの。
みんな自分の頭の上のハエを気にしすぎね。
誰かの頭の上のハエを追っていてごらんなさい。
いつか、
あなたの頭の上のハエを追ってくれている人に気づくから」

自分のことはさておき、
人様のお世話をさせていただく。

人様が幸せになるお手伝いをする。

  命を人のためにつかうのです。

自分が幸せになろうとして、
幸せになれないように、
人は創られている。

誰かの幸せを願い、
誰かの幸せのお手伝いをするとき、
感じるあたたかさ。

それを「幸せ」と呼びます。

今日も目の前の人が、
喜んでくださることに自分を捧げてゆきます。


悩み苦しみは、自分について考えていること。

自分勝手に作り上げた、
「私」という錯覚が苦しみを生みます。


糸川先生との対話も、
中山先生との対話も、
先生が天に帰ってゆかれてから始まりました。

真実の対話は、
別れてから始まる。

 お別れはいつも突然やってくる。

   だからこそ

    今日一日を確かに

     目の前の大切な人と大事な時間を。