ずいぶん前のことに思えるほど

毎日毎日が充実していてありがたいのですが、

ときに振り返るのも良いですね。


   去年秋のパラオ

 ペリリュー島慰霊の旅

 仲間たちが津のログハウスに

 集いました。



    いやはや飲みに飲みました。


 九州から、関東から

遠くからヒラリと動く仲間たち。


   頼もしいものです。


 出会いは、約束。


   とても不思議。



不思議は詮索しませんが、
理屈を超えて、
生きていることの懐かしさに、
胸が熱くなり、
いつしか自分を生きるエネルギーに
満ちてくるのです。


いまではほとんどありませんが、
まわりの人が皆えらく思えてくる日がありました。
そんなときは、
今までしてきた悪いことばかり思い出してしまいます。


「あれをしたからこうなった。
それをしなかったからこうなってる。」
ネガティブな感情や否定的な考え方が湧き上がります。

エネルギーが落ち込んでるとき、何もかも自分のせいだ、あるいはあいつのせいだと犠牲者に成り切ってしまうと人に会うのも億劫になります。

挙げ句の果てに
「神さまのバチが当たった」
なんて思ってしまうのです。


でも、
もしも自分が神様だったら、人対してどんなことをするだろうか?

バチを当てるだろうか?

私はバチというものではないと思います。
バチではなくてメッセージが来ると感じます…。


これは死んだ後であろうが、死ぬ直前であろうが、生きているときであろうが、どんなときにも、それはずっと作用しつづけるであろうと思うのです。


気づかせるためのアラームのようなものでしょうか。

ならば、
気づけば終わる。


終わらないのは気づいてないから。

過去の後悔も
未来の不安もすべて幻想です。


常に今ここで「自我」がどう反応しているか、
だけです。


溺れるほどの神さまの愛の海の中で、
私たちは今日も生かされています。


感情とは海原の表面のさざ波に過ぎません。


その海の底深く、
滔々と流れる生命潮流。


どれほど海面が波立とうと海流は流れる。


その命につながる私の命を意識するだけで、
心は強くなれます。


私は海の中のひと粒の水滴。


ひと粒であるけれど、
私は海でもあります。


自分の魂の奥底に流れる大河のようなエネルギー、
出会いはそことアクセスする神事だと、
私は思っています。

  どうぞ良き出会いを。