おかげさまで、

   65回目の誕生日となりました。


  65年前の今日は、寒かったなぁ


    知らんけど



  私の今日までの最高の功績は

   「死ななかったこと」


  今日からのつとめは

   「生きること」


   これからもよろしくね。



さて、

旅に出ると
やっぱり自分と出会います。
しかも、ほぼ全く日本人のいない世界
新たな自分のと会話が深まります。


イスラエルの旅を振り返って、

イエスキリストというイスラエルに2000年前生まれ、

わずか33年間の生涯を終えて地上を去ったにもかかわらず、何故か人類の歴史を変えるほどに影響を与え続けている人のこと、やっぱり知りたい。

もっと知りたい。


イエスは、役割を演じた役者ではありませんよね。

どんな状況でも、その役割に自分を合わせず、
いのちのやりたいことをする。

という、人間が生まれた理由を完璧に成し遂げた人やと思うんです。


ひとそれぞれに生まれてきた理由が違うと思います。
それぞれがやりたいことが違うからです。


 私たちは、知らず知らずのうちに自分勝手に創り上げた「私」という錯覚と、それが演じる役割の中にあります。


テレビに出てくる政治家や評論家や宗教家たちは、役割に完全に自分を同一化して、立派な人と呼ばれています。


でも、
どれほど立派に見えても「私」というエゴが生み出したゲームのプレーヤーである限り、そこに真の目的はありません。


 役割を演じていることに無意識でいるうちに、等身大の自分を生きることから離れてゆきます。

私たちは、すでに自分自身です。

どうすれば自分らしく生きられるかと、考えた時、また役割を演じます。


「自分らしくあるということが

  どういうことかわからない」


それでいい、自分が何者かわからなくてもぜんぜん大丈夫と思えた時、残っているのがあるべき自分です。


 それが人間が存在する意味だと、時空を超えて教えてくれるのがイエスキリストです。


彼は、人類史上初めて
「神は愛」であることを知らせてくれました。


愛する者と、愛されるものがある二元性の「愛」ではなく、「愛である神」を知ることが
二元・・・つまり、分離を終焉させ一元を知る唯一の道なのだと教えてくれたのです。


 神さまに愛されるため、何かになろうとするとき、心の中に「わたしは足りない」という考えが起こります。

だから、

自分が自分であるために必要なものを手に入れようするのです。


でも、
自分が自分以上に存在することなどできません。


 わたしは、誰にも劣っていないし、

   優れてもいません。

なぜなら、わたしはわたしだからです。

   他の誰でもないのです。


そこに真のプライドと謙虚さが同居することができます。


エゴの世界では、プライドと謙虚さは矛盾していますが、本当はこの二つは同じものなのです。


 役割を演じる時、人はとても弱くもろいものですが、ただなすべきことをなしているとき、人はとても強くなります。


聖書に出会って35年
教会で牧師先生の話を聴いたことも、神学を学んだこともありません。


ただ、イスラエルの地で足の裏で聖書を読んできました。


キリスト教はわかりませんが、
キリストはいつもそばにいてくださいます。


 イエスが、役割を演じていた役者なら、
彼は世界を変えることなどできなかったでしょう。


彼は、真っ黒な石が熱と圧力で透明なダイヤモンドに変容したように、人が役割を演じて生きる「私」という錯覚から、「完璧な自分自身である」ことを教えてくれたのです。


人が変容できるという希望をいまもなお伝え続けているのが聖書であり、それを伝えるのが私のライフワークである聖書塾なのです。

  65歳を迎えて、旅路の終わりが見えても

  子どものころのような清らかでがむしゃらな気持ちで、ライフワークを楽しんで生かしていただきます。

  生きてて良かった、

     あなたに会えたから。