さあ、今日 令和6年1月13日

今年最初の講演会、地元三重は四日市にて。


年間100回ほどの講演をさせていただいていたのが、

コロナ禍で9割減

今年は半分くらいは戻るのでしょうか。


  でも、立ち止まって

「お父さん、日本のことを教えて!」

「ユダヤに学ぶ変容の法則」

「あなたに知らせたい日本という希望」

  3冊の本を書けたから、

やっぱり、

 すべて必要


   必然


 そして、最善

  
 明日は、静岡講演会
   今年もお目にかかれるのを楽しみに!

 4月4日のYAMATOプロジェクト
   是非、お越し下さい。



ところで、

 以前、森友問題で安倍昭恵さんがバッシングされたとき、
赤塚高仁、舩井勝仁もこんなふうに書かれましたね。


(引用ここから)

「経営コンサルタントでスピリチュアリストとして知られた、舩井幸雄の没後、その人脈や事業は息子の舩井勝仁に引き継がれた。
彼は、雑誌「ザ・フナイ」を発行、父と同じように数々のスピリチュアリストたちを束ね、
「舩井ファミリー」を作っている。

昭恵は彼らと非常に近い。
というよりも、ファミリーの一員として、何度も紙面に登場している。

「ザ・フナイ」2017年1月号には、
この舩井勝仁と昭恵、建設会社代表取締役の赤塚高仁、
新しい光エネルギー技術を用いた冷暖房システム「光冷暖」の発明者の二枝たかはるによる座談会が掲載されている。
・・・・・
 この赤塚はスピリチュアル系の自著を多数、出版しており、昭恵は彼の本を愛読し、非常に親しく交際している。
・・・・・
 また彼は、教育勅語の熱烈な礼賛者でもあり・・・(引用ここまで)

 取材の申し込みはありましたが、お断りしました。
にもかかわらず、呼び捨てに書いてくださった文藝春秋です。


その文藝春秋が、
ノンフィクション作家の清武英利さんの、「後列のひと」という連載をし、赤塚はまた登場しました。



後列の人とは、後ろの列の目立たぬところで人や組織を支える人々の物語です。

作者の清武さんに何度も取材を受け、
私のログハウスにも泊りがけで来られました。
糸川英夫のことが書きたい、と言われました。

ロケット博士として脚光を浴びた有名人としてではなく、一人の人間としての姿を伝えたいのだ、
だから、
協力してくれないか、と言われました。

私も、人間として清武さんのことが好きになりましたから、できる限りの協力を約束したのでした。

ただし、

アンさんのことをちゃんと書いてくれるなら、
という条件付きで・・・


 文藝春秋2019年3月号496ページには、
糸川先生がアンさんと並んで写り、同じページに
「二人の恋の墓守・赤塚高仁氏」と私の写真も載っています。

私と糸川先生との出会い、聖書の勉強会のこと、
先生からかかって来る電話のこと、
晩年の先生、そして先生とのお別れ・・・
読んでいるうちに走馬灯のように思い出が蘇って来て、
・・(ここから引用)


「いよいよ身体が動かなくなった頃、
アンさんは糸川の手を握りながら、赤塚に漏らした。

『あたしは今が一番幸せなの。
 ヒデちゃんが私だけのものになったのよ』

一方の赤塚は師を失う不安から、
糸川の車椅子を押しているときに尋ねた。

『先生、僕はこれからどうしていくのがいいでしょうか?』

細い声が帰ってきた。

自分で考えなさい

そうだ、先生はもういなくなるのだ。」
(引用ここまで)

 この場面を読むと、その時の糸川先生の声がありありと聞こえてきます。
そして涙がこぼれそうになる。


糸川英夫先生と出会って35年、
私が大きな決断をして、「ヤマト・ユダヤ友好協会」を立ち上げ、講演や執筆で生きていこうと宣言したのも、自分で考えたからです。


まさに、

 仰げば尊し、わが師の恩です。

恩返しは何もできませんでしたが、
これから恩送りをして、周りの人に役立ってゆきます。

人に喜ばれる存在として生かしていただきます。

天国の糸川先生とアンさんに再会するその日まで、
手のひらをもらうためより、あげるために使ってゆきます。

 講演とは、

 水に文字を書くような仕事。

 でも、

 石に刻むような思いで魂から叫ぶのです!


 2,000年前、ナザレのイエスがそうだったように。

  行って参ります!