東京、四谷の朝です。
これから羽田に向かい、高知へ飛びます。
書店でのサイン会
嬉しいですね。
作家冥利に尽きます。
初めて本を書いたのは、
34歳の時ですから、30年前のこと。
そのころから、
いつか「書店でサイン会」をやるんだと決めていました。
いつのまにか、時は過ぎたけど、
人生はステキなゲームだと思える自分がここにいて、
どの瞬間も喜んでいられることに感謝します。
かつて、
社員5,000人もいるゼネコンに入社して、
四国支店で営業をしていましたが、談合や政治家とのつきあいの矛盾の中で、心を病んでうつ病になってしまい、会社を辞めたのが28歳のときでした。
建設の仕事をやりたくて入社したわけでもなく、
その会社が好きだったわけでもありません。
実家が工務店だったのと、大きな会社だったら世間体がいいのでどこでもよかったのです。
いい会社に務めれば、人生は安泰だと教えられていましたから。
30前にして
「人は何のために生きているのだろうか」と悩みだします。
何をして生きるのか・・・と、娘のマホが生まれてから考えだします。
実に迷惑な話ですね、家族にとっては。
それはそうでしょう、
インドに行ってガンジス河で考えたり、
エルサレムに行ったり、
あちこちの宗教に出入りして、挙句の果てに麻原ショウコウのところまで行ったりしてたのですから。
危なかったですねーーーー ひとつ間違ったら
そんなことしながらも、建築士の資格をとり、宅建の免許をとって不動産の会社をつくったりもしてました。
当時、赤塚建設は父の会社で、大手ハウスメーカーの下請け工務店でしたから、自社で営業するということはありませんでした。
仕事は文句を言っていても与えられていましたから。
世の中はバブル、誰もが浮かれて借金し、土地を買い、家を建てました。
いいことを言って契約をとってくるハウスメーカーの営業マンのしりぬぐいは大変でした。
夢いっぱいのお客を、現実に目覚めさせ、失望と怒りにさらされる毎日でした。
いいことは、ハウスメーカーへ
クレームは、下請け工務店へ
ハウスメーカーというのは、施工しません。
われわれのような工務店を使って建てるのです。
そんなときに、私が初めて受注した注文住宅。
お子様もおられない御夫婦が、二人で過ごす想いの込められた家。
請け負い金額も大きかったですが、仕事の喜びの大きさが私を変えてくれました。
完成したときに、私の家族を招いて食事をふるまってくださいました。
「ありがとうございます。
思いどおり以上の家が出来て、こんなに嬉しいことはありません。
何一つ不満のない仕事をしてもらえたのは、赤塚さんのおかげです」
思いもよらない言葉をいただき、感動しました。
それまで、さんざん「ありがとうございます」と口にしてきましたが、大きなお金をいただいた上に「ありがとう」を言ってもらえるのが商売というものなのだと知りました。
その家が私の商売の原点と言えましょうか。
それで、父に
「下請けの仕事はやめよう」と言ったのです。
父は、「お前が仕事をとってきて、それで食べられるようになったら下請けをやめる」と言いました。
私は、
「下請け根性をもったまま、元請けにはなれへん。
二つの川は同時に泳げへん。
下請けの工務店をやめるか、ワシがここを辞めるかどっちか一つに決めて」
と、父に生意気にも言ったのです。
その日、父は
「お前に社長を譲るから、好きにやりなさい」と言って、以来、会社に来ても私のやり方に口出しすることはありませんでした。
立派な父でした。
改めて感謝します。
その建設会社を30年経営した後、
いま、作家・講演家として全国を駆け巡る。
そんな息子を見て、父はどう思うでしょうか。
親孝行とは、
命懸けでしあわせに生きること。
いつも喜んでいること。
絶えず祈っていること。
すべてに感謝すること。
では、行ってきます!