「願われている」ことなので

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「石野節雄さんを訪ねて」
 

各地に天変地異が起こっています。

それらがすべて天からの
「日本よ目を覚ませ、早く目覚めよ」
という声のように聞こえてならないのは、

私の幻聴でしょうか。
何が起きてもおかしくない、
まさに旧約聖書の物語が目の前で

起きているように思えるのです。
 


何か大切なことを思い出せと、

天から促されているのかも知れません。
そんな時代です。

 


過去の延長線上に、

これからの未来がないことを

多くの人が気付き始めているのではないでしょうか。

 


どうやら新しく始まる時代の扉が開くときが

きているようです、明治の維新のように。


だからこそ、

私たちは本当のことを知らなければならないのです。
私は、「教育勅語という祈り」に

こんなエピソードを書きました。
(引用ここから)


「 戦艦ミズーリのへこみ傷
 

『僕の人生は明日で終わる、
生きたであろう残りの人生を未来の君たちに託す』


これは、
鹿児島は知覧の基地から飛び立った、

19歳の青年の遺書です。

 

 

250キロの爆弾を抱えて、

沖縄にいる米軍の艦隊目がけて飛んでゆきました。


私は、今年1月にハワイを訪ねました。
そして、ワイキキの雑踏を離れて真珠湾に行きました。


浜辺にもショッピングセンターにも

日本人がたくさんいて、

どこでも日本語が通じます。

まるで、日本の観光地です。

 


ところが、真珠湾に行くと、

日本人はほとんどいません。

中国人は群れています。

車でほんの20分ほどの距離ですが、

真珠湾を訪ねる日本人がほとんどいない

というのは信じがたいことです。


いま、真珠湾には戦艦ミズーリがつながれており、

中を見学することができるのです。

 


ミズーリは第二次世界大戦から湾岸戦争まで

使われた軍艦です。スリムな船体ですが、

長さは大和と同じくらいの巨大な戦艦です。

 

日本は、1945年9月2日に

この戦艦の甲板で降伏文書に調印しました。


そのミズーリの後方、

右舷に小さなへこみ傷があります。
わずかな窪みです。

自動車が駐車場のブロックにぶつかったときの

かすり傷よりも浅いような、

戦艦にはなんら影響もないような傷です。


しかし、

私はそこにあった説明を読み、

言葉を失い、そこに立ちつくしました。


1945年、沖縄戦で、

ここに零戦の特攻機が激突したのです。
石野節雄さんという19歳の青年の乗ったゼロ戦です。


雨あられと降る艦砲射撃、

敵の戦闘機の攻撃を掻い潜って、

ついに米国の戦艦に突入したのです。


しかし、

石野二飛曹の抱いた250キロ爆弾は不発でした。
機体のほとんどは海中に落ちてゆき、

19歳の戦闘機乗りの上半身だけが甲板に落ちてきたのです。


「ジャップ!」
憎しみを込めて水兵たちが亡きがらを足蹴にしました。


しかし、そのとき艦橋に立った艦長が怒鳴ったのです。


「バカ者!やめないか!
その若者は、われわれと同じだ。
祖国を守るために突撃したのだ。
他のゼロファイターが撃墜されているのに、
ここまでやって来た彼はヒーローだ。褒めるべきだ!」


それを聞いた水兵から士官まで、

すべての人がその場で反省し、
船の中で白い布と赤い布を徹夜で

縫い上げて旭日旗をつくり、
翌朝、石野二飛曹の上半身を包んで、

戦闘の真っただ中に正式なアメリカ海軍葬を行いました。


乗員が整列し、敬礼し、

遺体を海に帰しました。
ラッパを吹き、礼砲を打ち鳴らし、

正式な海軍葬を行ったのです。


実際に、ミズーリの甲板には

その時の足の跡がペイントされています。

葬式の写真も展示されています。


祖国に命を捧げた英雄として、

米国で称えられていることを、

私たちは知らされていません。


いま、「無駄死にだ」「犬死だ」と

特攻隊員に対して、同胞である

私たちがひどい言葉を投げつけています。

 


挙げ句の果てに、

特攻を「自爆テロ」だと言い放つ有識者もあります。

 


彼らは「日本は悪いことをしたのだ」

と自分の国を見下すようなことを平気で言います。


しかし、

戦艦ミズーリの艦上で知った

米軍のフェアな心に私は感動しました。
 


日本は、戦略的にも戦力的にも

米国に負けました。

 


しかし、実際の戦闘においての、

日本人将兵の勇猛果敢さ、

忠誠心の高さは、米国人の理解を

はるかに超えるものであり、

心ある米兵たちには心底からの畏怖を与えました。

 


そして、悲しいかなそのことが、

勝たなければならない戦争ゆえに、

一般市民をも巻き込む度を超えた

攻撃へとつながっていったのです。


私たちが、いま日本に生まれ、

豊かな生活を送れるのは、

日本を守ってくださった先輩方のおかげです。

 


祖国のために貴い命を捧げてくださった

英霊に対して、感謝の気持ちを持てないというのは、

もはや国民としては末期症状ではないでしょうか。


「僕の人生は明日で終わる、
 生きたであろう残りの人生を未来の君たちに託す」


託された日本人の一人として、

この手紙が胸に刺さり痛むのです。」
(引用ここまで)



知覧に行き、石野節雄さんを探しました。
どこにも見当たりません。


遺影の隅から隅まで、

遺書も全て探したけれどみつかりません。

 


あ、・・・そうだ、

石野さんは零戦で出撃したのだ・・・

知覧は、陸軍の基地だから零戦はない。

 


鹿児島の海軍の基地は、そうか、鹿屋だ!


車を走らせて、

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館へと向かいました。

 


ホールには零式艦上戦闘機52型が、

見事に復元されています。

 


本物が放つ圧倒的なオーラに、

胸が締め付けられるような思いがします。
風防が開き、コックピットの計器まで覗き込めます。


それから、

祈念館の壁一面に貼られた英霊の写真、

一枚一枚と対面してゆきました。


石野さん・・石野さん・・・いし・・

あ! ついに出会えました。

 


永遠のゼロの小説のラストシーンは、

宮部久蔵が突入するも不発、

そして上半身がちぎれて甲板に落ちてくる場面でしたが、

そのモデルは石野節雄さんに違いありません。


石野さんの写真をじっと見つめていると、

声が聞こえてきそうです。
写真の下に、こう書かれています。


「石野節雄
神雷部隊第5建武隊 
昭和20年4月11日 12:15出撃
岡山県出身


遺書
『お母さん、

いよいよ最後の花を咲かす日が来ました。
私も笑って行きます。
すべて御国の為ですから、
何も言わないでください。
今度会う日、靖国神社で立派に咲いた花の下です。
良くやったと泣かずに、にっこり笑ってください。
私も皆の健康を何時迄も祈っております。

 では、御元気で。

 今日あるを
   かねて覚悟のあずさ弓
 敵の母艦に真一文字

      節雄 拝
 4月6日』」



写真撮影が禁止されているので、メモを取りました。
遺書を書き写している間、涙が止まりませんでした。


ハワイに行ったのも、

真珠湾で戦艦ミズーリに乗り込んで、

突入する零戦の写真を見たのも、

ぶつかった跡を見たのも石野さんの魂が導いてくれたのでしょう。
そして、鹿屋で石野節雄さんと対面したのも・・・


基地を飛び立ち、沖縄まで2時間の飛行。
沖縄に着く前に、ほとんどの特攻機は

レーダーによって発見され、

上空で待ち構えている米国のグラマン戦闘機に撃ち落とされました。


もはや特攻機に護衛もつきませんでしたから。
ベテランパイロットは残っておらず、

10代の即席飛行士では米軍の餌食です。


敵機を振り切り沖縄の艦隊に近づいても、

艦砲射撃で一機あたり4トンもの弾が降り注ぐのです。

 


火の玉の嵐をくぐりぬけて

敵艦に体当たりしてくださった、

19歳の石野節雄さん、
いったいどんな思いで飛んでおられたのでしょう。


あなたが命をかけて守ろうとしてくださった日本は、
あなたが願ったような国になっているでしょうか。


もしも、あなたが願った通りになっていたなら、
私も、あなたに呼ばれることはなかったのでしょう。


石野さん、今は大砲も敵機も攻撃してきません。
とても平和で安全な国だとみんな思っています。
 

 

でも、
石野さんは、安心だと思っておられないのですね。


精神的荒廃がすすむ日本は、

魂の戦争状態だと感じておられるのですね。


石野さん、

私は零戦で戦いにゆくことはできませんが、

一人でも多くのヤマト人の霊性の復興のために、

メッセージを送り続けます。

 


どうか、天界からの指導、よろしくお願いします。


ヤマト人への福音が、

一人でも多くの同胞に届きますようにと祈りつつ

 

 

 

 

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