「求めよ、さらば与えられん」

聖書の中で、

イエスキリストが言ってた有名な言葉。

でも、

  求めたからって、

全てが与えられるのかなぁ、と思う。


きっと、クリスチャンは

「信仰が足りないのです」

と、言うことでしょう。

でも、

イエスキリストは「求めよ」ではなく、

「求め続けよ!」

と言ったのです。


   いつも

新しいことを始めるとき、

夢を口にした途端に、

「そんなのムリ」と潰し屋がやってきます。
どれくらい無理なのか説明しにくる友達もあります。

 携帯電話
 パソコン
 コンビニ
 ETC
 ペットボトルのお茶
 マクドナルド
 コカコーラ・・・

私が子供のときには、

家にはテレビも電話も冷蔵庫も

ありませんでした。

世の中には、

新幹線も高速道路もありませんでした。


それでも、

みんな当たり前のように私の日常に溶け込んでいます。

いつも間にか、

「あったらいいな」、

の世界が

「なくては困る」になっています。



なにごとも、はじまったばかりのときに、
 「いずれこうなりたい」と語ると冗談みたいに聞こえるのです。


未常識のことは、圧倒的に少数だから。


 その事業に関わる人の数、費用、期間、
 そもそもそんなことがやり通せるのか?


きっと頭のいい人ばかりが集まっていたら、
「できるわけがない」と分析して、
 「やめたほうがいい」と結論づけてしまうことでしょう。

 でも、糸川先生のように

「恐ろしいほどに頭のいい人」や、
 「ちょっとアホな人」だとかがいて、

 「できるはずやし、やるです」と言えたのでしょう。

一人の天才だけでもできないし、
大勢のちょっとアホでもむつかしいかもしれないけれど、
いろんな例を見ていると、
 たったひとつの、「なぜできたか」の理由が見えてくるように思うのです。

人びとが求め続けていたから


ロケットも、 新幹線も、高速道路も、飛行機も、携帯も、コンビニも、インターネットも、
 口に出したか出さなかったかは別として、
 「人びとが求め続けていた」ということは、いまわかるのです。


 人のこころ(願い)が、それをさせたのです。

その、さきがけになるには

「恐ろしくアタマがいい」人と「ちょっとアホ」な熱い奴らが、
冒険に出ようと思わなければなりません。


それは誰かの役に立ちたいという、利他の心だったりします。



そして、一歩前の道に踏み出さなければなりません。


大勢の人の心が、やがて開き、実を結ぶのです。


未常識が常識になるって、素敵なことです。


人間として生まれた喜びが、そこにあるように思えるから。