
A. アブラハム 11:27-16:16
A-1 召しとカナンへの旅。 11:27-12:9
A-2 エジプトでの経験 12:10-20
A-3 ロトとの分離 13:1-18
A-4 ロトの救出、メルキデゼクと出あう 14:1-24
A-5 神との契約 15:1-21
A-6 ハガルとの結婚、イシマエル誕生16:1-16
■創世記12:10-20
10 さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。
11 エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。
12 それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。
13 どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。
14 アブラムがエジプトにはいった時エジプトびとはこの女を見て、たいそう美しい人であるとし、
15 またパロの高官たちも彼女を見てパロの前でほめたので、女はパロの家に召し入れられた。
16 パロは彼女のゆえにアブラムを厚くもてなしたので、アブラムは多くの羊、牛、雌雄のろば、男女の奴隷および、らくだを得た。
17 ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。
18 パロはアブラムを召し寄せて言った、「あなたはわたしになんという事をしたのですか。なぜ彼女が妻であるのをわたしに告げなかったのですか。
19 あなたはなぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのですか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここにいます。連れて行ってください」。
20 パロは彼の事について人々に命じ、彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた。
飢饉が与えられたのも、神の摂理のもと、神のお考えがあってのことのようです。
『主は、摂理のうちに、この試練を与えて、服従、忍耐、信仰などの教訓を教えようとなさった。この教えは、後で苦難に耐えるように召されるすべての人のために記録されることになった。神は、神の子らを知らない道に導かれるが、神は、神に頼る者を忘れたり、見捨てたりなさらない。・・・・神は神の民が試練にあうのを許される。それは、彼らが神に誠実を尽くし、服従することによって、彼ら自身が霊的に豊かになるためである。』(人類のあけぼの上巻127-128)
『さらに、彼らの模範によって、他の人々に奨励を与えるためである。「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画は私が知っている。それは災いを与えようと言うのではなく、平安を与えようとするもの」である(エレミヤ29:11)。われわれの信仰を最も厳しく鍛え、神は、あたかもわれわれを見捨てられたのかと思わせるような試練そのものが、実はわれわれがすべての重荷を主のみもとにおろして、それに代えて、彼がお与えになる平和を味わうことができるように、われわれをキリストのそば近くに導くのである』(同上)
アブラハムは信仰に厚い人であったのに、妻のことで弱さが出てしまいました。
聖書に登場する人物は完全な人々ではありません。私たちと同様弱さをたくさんもっていました。
そして後代の神の擁護者の教訓のために、記録されています。クリスチャン品性は、聖書研究を通してまた信仰の体験を通して築き上げられていきます。それは神の子イエスに向かわねばなりません。これが天国へ入るパスポートとなります。それだけではなく、神は、神の擁護者たちを神の子として、この世における光となるよう、訓練されるのです。それは神がこの世を愛され、1つでも多くの魂を滅びから救うというお目的のためでした。そのご用のためにクリスチャンは弱点を訓練されます。クリスチャンとしての成功勝利はキリストに似た品性によるからです。
『神は、常に神の民を悩みの炉の中で試みてこられた。クリスチャン品性という純金から不純物が取り除かれるのは、炉の火の中においてである。イエスは、この試練を見守っておられる。彼は、尊い金属をきよめて、彼の愛の輝きを反映させるのには、何が必要であるかを知っておられる。神は、綿密な厳しい試練によって、そのしもべたちを訓練なさる。神はある人が神のみわざの進展のために役立つ能力を持っているのを見られて、そのような人々を試される。神は摂理のうちに、彼らの品性をためす地位に彼らをおいて、彼ら自身でも気づかなかった欠点や弱点を表される。神は、彼らがこれらの欠点を直して、奉仕にふさわしいものになる機会をお与えになる。神は彼らの弱点を示して、神に頼ることをお教えになる。なぜならば、神が彼らの唯一の援助者であり、保護者だからである。こうして神の目的は達成される
彼らには、大目的達成のための教育、訓練、鍛錬、準備などが与えられる。彼らの力は、そのために与えられたのである。神が彼らを活動に召されるとき、彼らは準備が整っている。そして、天使たちは、地上の働きを完結するために力を合わせているのである。』
アブラハムの体験はまさに、この訓練でした。この時、エジプトに来た時、神はアブラハムの弱さを示されたのです。アブラハムはこのような罪を一度ではなく二度犯しています。創世記20章で、ゲラルの王アビメレクにも同様なことをしました。また彼の息子イサクも同様のことをしました。これも後の章で出てきますので、その時扱いたいと思います。
『アブラハムは、エジプトに滞在していた間に、彼がまだ人間的に弱く、不完全であるという証拠をあらわした。彼は、サラが妻であることを隠して、神の守護に対する不信を示し、これまでの彼の生涯において何度となく立派に示されたあの大いなる信仰と勇気に欠いたのである。サラは美しい女であった。アブラハムは、浅黒いエジプト人はきっと美しい外国人をほしがり、彼女を得るためには、平気でその夫を殺すことだろうと考えた。彼は、サラが父の娘ではあったが自分の母の娘ではなかったので、自分の妹だと言っても、うその罪にはならないと考えた。しかし、二人の間の真の関係をこうして隠したことは欺瞞であった。全く正直であることから少しでもそれることを神は許されない。』(同上P.129)
パロとサラに関して、この続きは次回にしたいと思います。
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