本日は、修験陰陽系呪術『一條流呪術』の術師として『願掛け』と『呪詛返し』について書いてみようと思います。
「願掛け」は「祈願」と同じ様に神に願い事を叶えて頂くものですが、互いに少々違いがあります。
『祈願』とは、普通に神前に於いて、願い事を叶えて貰える様に神に祈る事です。
一方、『願掛け』とは、「祈願」と違い、心身を清浄かつ堅固にし、なおかつ自身に苦行を課する事で、神仏にその願いや神仏に対する真摯な姿勢を、態度や行為で伝え様とするもので、その恩寵と霊験を期待すると共に、自らも試練や苦行、等その逆境を打破して祈願の実現に向けた精神的な決意を得ようとするもので、ただ神や仏からのご利益を待っているだけではないのです。
なお、満願(願いの実現)の際には、額や幡を奉納したり、御礼参りを行う事で、その恩寵や霊験に感謝する事が行われて来ました。
『祈願』にしても『願掛け』にしても、鰯の頭も信心から(鰯の頭を軒に置いておくと鬼が来ないと言われている)と昔から言われてる通り、先ずは信心が必要で、信じていなければ願い事は叶いません。
次に、行動が必要です。
当たり前の事ですが、何もしなければ、何も起きません。
例え神様にお願いたとしても全ての事は、行動を起こさないと結果は得られません。
また、願い事はリスクが大きい程、叶い易く、願い事が大きく叶い難い程、リスクは大きくなる為、自分自身からリスクを提示してから願うのが『願掛け』なのです、肉体的なリスクは、霊力を高めると云われており、特に感覚器に障害があると霊的感覚が発達すると云われています。
私の知人で呪術師の家系では近代まであった事ですが、昔の呪術師の中には、焼いた針で瞳孔を焼き潰す(瞳孔を焼くだけなら目玉は残るから目玉を取らない様に瞳孔だけを焼いた)などをして霊力や霊感を高めたりしました。
願いが叶い難いものである時には犠牲が出る事もありますが、事前に願いと等価値の犠牲を提示しておく事で願いを叶え易くする事が必要で等価の交換になります。
ただし、確実に願いを叶えるものではなく、願いを叶え易くするだけの行為なので必ずしも必要な訳ではありませんし、釣り合わない場合は叶いません。
中には、願掛を“縁起担ぎ”や“お呪い(おまじない)”或いは、“呪文”等と混同している方も多いと思いますし、非常に曖昧な部分になる事は確かです。
例えば「新しいヘアスタイルにして気分を新たにする」とか「黄色い財布を持つとお金がたまる」等は、“縁起かつぎ”の部類になりますし、手の平に指先で人という字を3回書いて飲み込むと緊張しない、等は“お呪い(おまじない)”や“呪文”の部類になり、呪い(まじない)の中には、呪術、或は黒魔術や白魔術と呼ばれる本格的な魔術も含まれてきます。
願掛と、“縁起かつぎ”や“おまじない”との一番の大きな違いは、自分自身に試練や苦行を掛けるか掛けないかと言う事です。
願掛けは、因果応報や等価値の交換といった霊的な法則が使われています。
人を呪わば穴二つと云うのも、因果応報の法則によるもので、『因果応報』とは「原因」に対して「結果」が返る事を指していますので、悪事に対して悪い結果が返った事に使われる事が多い様ですが、良い行動から良い事が返って来るのもまた因果応報です。
物事には原因と結果があり、原因が発生しないと結果は得られません。
その原因を意図的に作り出し意図的に結果を導き出すのが、呪術や魔術での術であり、意思(精神)が精神に干渉出来る事を利用し、周囲または自身に働き掛ける事で、願い通りに事を運ぶ様にする訳です。
祈願の為の交換条件に、『断ち(絶ち)もの』と云う呪法もあります。
断食などは食事を断ちますが、習慣的行動や欲求を断ち、祈願への集中力を高めるのが「断ちもの」の目的です。
断ちものは、等価以上の価値の行為や物であれば、価値(欲求)の高いものである程、効果が上がるとされています。
祈願系の魔術の術式の中には、等価値の交換や断ちものなどの方法を使った術式が含まれる事もあり、こういった「限定条件」を加える事により術に働く意識に方向性を与える事で祈願の効果を高める事もあります。
また、『御守り』も、一種の「願掛け」であり、願いを象徴した物を身に付けていたり、特定の場所で保管する事で効力を発揮するとされています。
魔術や呪術を勉強している者の中には、『自分は、呪詛は祓えるし、やらないから呪詛の事など覚える必要はない』と考えている方が多い様ですが、「雑念」や「穢れ」ならば、自然に発生した「意識」ですから、霊能力や浄化術などで簡単に祓う事が出来ますが、『呪詛』というものは、『呪術によって人為的に送られた強い念』ですから、「呪術」自体を解除してからでないと完全には祓う事は出来ません。
完全に祓ったつもりであっても解呪(呪詛を解除する事)をしてから祓わなければ、一時的に呪詛の効果を妨げただけであり、祓えた訳ではありません。
また、「毒」を持つ生きものが「解毒効果」を持っていて自分に毒が効かないのと同様に、呪詛を行う呪術師は、自分の呪詛に掛からない様にしなければいけませんよね?
呪詛には呪術者本人が呪詛に掛からない様に、呪詛を解除(解呪)出来る様になっていたり、呪詛から身を守る為の術(すべ)が必ずあります。
だからその事を知っていれば、解呪をする事が出来る訳です。
従って、『呪詛を祓う為には、呪詛の知識を勉強する必要』がある訳です。
具体的な呪詛は書籍やネットで調べれば良いし、生半可にやったら危険なので、ここでは敢えて例は書きませんが、安全かつ確実な術式運用の為、基礎理論のみを解説します。
「穢れ」や、自らが引き寄せ、付着した様な「雑念」などは、浄化術などで祓い浄める事は出来ますが、「呪詛」の場合は、人為的なもので、簡単には祓う事が出来ません。
穢れを「自然に付着した埃」と例えるならば、払う事、即ち『祓い』は簡単に出来ますが、呪詛は穢れとは違い、「塗りつけられた汚れ」と例える事が出来ます。
塗りつけられた汚れを落とすには、汚れ自体が油汚れなのか色素なのか知る必要があり、それが判ったらそれに合った汚れの落とし方をしますよね?
つまりは、呪詛は「祓い」をするではなく、「解く」必要があり、解く為にはどんな呪詛なのかを見極めなければ、解呪をする事は出来ませんから、先ずは呪詛を分析します。
呪詛の分析は、呪詛を掛けられている者に起こるその結果と状況から呪詛の方法を特定する事になります。
従って、沢山の種類の呪詛を知らないと呪詛の特定が出来ませんし、呪詛が特定しないうちに解呪を行う事は逆効果を引き起こす危険性もありますので、先ずは、見極めて解呪する必要があります。
呪詛返しで返った呪詛は、呪詛を掛けた本人に戻って行きますが、相手が自分の呪詛に掛からない様にしていたら、返してもムダですから、もうひとつ呪詛を掛けてから返す方法があります。
『呪詛返し』は、呪詛を掛けた相手に対する結果を本人に返します。
(一掃返しの場合はそれに返した相手の呪詛にもうひとつ別な呪詛が加わります。)
もし、本人が生きておらず存在しなければ、その呪詛は子に返り、子がいなければその土地へ返り、呪詛返しからは逃れられません。
土地へ返って呪われた土地となった場合、その土地の呪いは、七代先まで続くとされています。
昔から『人を呪わば、穴二つ』つまり相手を墓穴へ落とす(呪詛で呪殺する)なら自身も墓穴に入る(自身も死に到る)覚悟が必要であるという意味の事がよく言われる様に、呪詛は呪う相手ばかりか、自分自身にも影響が返ってきますから、それに備えた下準備を必要とします。
自身の穢れを利用する呪詛というものもありますが、基本的には自身に呪詛が及ばない様、自身と呪詛の儀式を行う場の浄化をする必要があります。
だからこそ神聖な儀式であっても呪詛の儀式であっても儀式を行う時には必ず「浄化」が必須となる訳です。
呪詛は自身にも影響を及ぼしますから、そこに付け入り、呪詛を掛けた相手に掛けた呪詛を返してしまう呪法が“呪詛返し”なのです。
呪詛返しは解呪と違い、掛けられている呪詛をそのまま返しますから、呪詛がどんな呪詛であるのかを把握し、確実に返さなければ、呪詛に掛かっている者ばかりか、返そうとした術者自身にまで呪詛に掛かる危険性があります。
呪詛返しの術の一つに『一掃返し』と呼ばれる術があります。 これは、一呪詛を掛けてくれば二呪詛にして相手に返し、二呪詛でくれば三呪詛にして返すという術です。
この呪法の術式は、一つの呪詛を掛けてくれば、それを解呪して必ず一つを加えて打ち返すのですから、数多くの呪詛を知らなければ負けてしまいます。
この様に、呪詛を祓うには呪詛の知識が必要なので、呪術師は、呪詛をしなくても呪詛に関する知識をたくさん持っているのです。
「願掛け」は「祈願」と同じ様に神に願い事を叶えて頂くものですが、互いに少々違いがあります。
『祈願』とは、普通に神前に於いて、願い事を叶えて貰える様に神に祈る事です。
一方、『願掛け』とは、「祈願」と違い、心身を清浄かつ堅固にし、なおかつ自身に苦行を課する事で、神仏にその願いや神仏に対する真摯な姿勢を、態度や行為で伝え様とするもので、その恩寵と霊験を期待すると共に、自らも試練や苦行、等その逆境を打破して祈願の実現に向けた精神的な決意を得ようとするもので、ただ神や仏からのご利益を待っているだけではないのです。
なお、満願(願いの実現)の際には、額や幡を奉納したり、御礼参りを行う事で、その恩寵や霊験に感謝する事が行われて来ました。
『祈願』にしても『願掛け』にしても、鰯の頭も信心から(鰯の頭を軒に置いておくと鬼が来ないと言われている)と昔から言われてる通り、先ずは信心が必要で、信じていなければ願い事は叶いません。
次に、行動が必要です。
当たり前の事ですが、何もしなければ、何も起きません。
例え神様にお願いたとしても全ての事は、行動を起こさないと結果は得られません。
また、願い事はリスクが大きい程、叶い易く、願い事が大きく叶い難い程、リスクは大きくなる為、自分自身からリスクを提示してから願うのが『願掛け』なのです、肉体的なリスクは、霊力を高めると云われており、特に感覚器に障害があると霊的感覚が発達すると云われています。
私の知人で呪術師の家系では近代まであった事ですが、昔の呪術師の中には、焼いた針で瞳孔を焼き潰す(瞳孔を焼くだけなら目玉は残るから目玉を取らない様に瞳孔だけを焼いた)などをして霊力や霊感を高めたりしました。
願いが叶い難いものである時には犠牲が出る事もありますが、事前に願いと等価値の犠牲を提示しておく事で願いを叶え易くする事が必要で等価の交換になります。
ただし、確実に願いを叶えるものではなく、願いを叶え易くするだけの行為なので必ずしも必要な訳ではありませんし、釣り合わない場合は叶いません。
中には、願掛を“縁起担ぎ”や“お呪い(おまじない)”或いは、“呪文”等と混同している方も多いと思いますし、非常に曖昧な部分になる事は確かです。
例えば「新しいヘアスタイルにして気分を新たにする」とか「黄色い財布を持つとお金がたまる」等は、“縁起かつぎ”の部類になりますし、手の平に指先で人という字を3回書いて飲み込むと緊張しない、等は“お呪い(おまじない)”や“呪文”の部類になり、呪い(まじない)の中には、呪術、或は黒魔術や白魔術と呼ばれる本格的な魔術も含まれてきます。
願掛と、“縁起かつぎ”や“おまじない”との一番の大きな違いは、自分自身に試練や苦行を掛けるか掛けないかと言う事です。
願掛けは、因果応報や等価値の交換といった霊的な法則が使われています。
人を呪わば穴二つと云うのも、因果応報の法則によるもので、『因果応報』とは「原因」に対して「結果」が返る事を指していますので、悪事に対して悪い結果が返った事に使われる事が多い様ですが、良い行動から良い事が返って来るのもまた因果応報です。
物事には原因と結果があり、原因が発生しないと結果は得られません。
その原因を意図的に作り出し意図的に結果を導き出すのが、呪術や魔術での術であり、意思(精神)が精神に干渉出来る事を利用し、周囲または自身に働き掛ける事で、願い通りに事を運ぶ様にする訳です。
祈願の為の交換条件に、『断ち(絶ち)もの』と云う呪法もあります。
断食などは食事を断ちますが、習慣的行動や欲求を断ち、祈願への集中力を高めるのが「断ちもの」の目的です。
断ちものは、等価以上の価値の行為や物であれば、価値(欲求)の高いものである程、効果が上がるとされています。
祈願系の魔術の術式の中には、等価値の交換や断ちものなどの方法を使った術式が含まれる事もあり、こういった「限定条件」を加える事により術に働く意識に方向性を与える事で祈願の効果を高める事もあります。
また、『御守り』も、一種の「願掛け」であり、願いを象徴した物を身に付けていたり、特定の場所で保管する事で効力を発揮するとされています。
魔術や呪術を勉強している者の中には、『自分は、呪詛は祓えるし、やらないから呪詛の事など覚える必要はない』と考えている方が多い様ですが、「雑念」や「穢れ」ならば、自然に発生した「意識」ですから、霊能力や浄化術などで簡単に祓う事が出来ますが、『呪詛』というものは、『呪術によって人為的に送られた強い念』ですから、「呪術」自体を解除してからでないと完全には祓う事は出来ません。
完全に祓ったつもりであっても解呪(呪詛を解除する事)をしてから祓わなければ、一時的に呪詛の効果を妨げただけであり、祓えた訳ではありません。
また、「毒」を持つ生きものが「解毒効果」を持っていて自分に毒が効かないのと同様に、呪詛を行う呪術師は、自分の呪詛に掛からない様にしなければいけませんよね?
呪詛には呪術者本人が呪詛に掛からない様に、呪詛を解除(解呪)出来る様になっていたり、呪詛から身を守る為の術(すべ)が必ずあります。
だからその事を知っていれば、解呪をする事が出来る訳です。
従って、『呪詛を祓う為には、呪詛の知識を勉強する必要』がある訳です。
具体的な呪詛は書籍やネットで調べれば良いし、生半可にやったら危険なので、ここでは敢えて例は書きませんが、安全かつ確実な術式運用の為、基礎理論のみを解説します。
「穢れ」や、自らが引き寄せ、付着した様な「雑念」などは、浄化術などで祓い浄める事は出来ますが、「呪詛」の場合は、人為的なもので、簡単には祓う事が出来ません。
穢れを「自然に付着した埃」と例えるならば、払う事、即ち『祓い』は簡単に出来ますが、呪詛は穢れとは違い、「塗りつけられた汚れ」と例える事が出来ます。
塗りつけられた汚れを落とすには、汚れ自体が油汚れなのか色素なのか知る必要があり、それが判ったらそれに合った汚れの落とし方をしますよね?
つまりは、呪詛は「祓い」をするではなく、「解く」必要があり、解く為にはどんな呪詛なのかを見極めなければ、解呪をする事は出来ませんから、先ずは呪詛を分析します。
呪詛の分析は、呪詛を掛けられている者に起こるその結果と状況から呪詛の方法を特定する事になります。
従って、沢山の種類の呪詛を知らないと呪詛の特定が出来ませんし、呪詛が特定しないうちに解呪を行う事は逆効果を引き起こす危険性もありますので、先ずは、見極めて解呪する必要があります。
呪詛返しで返った呪詛は、呪詛を掛けた本人に戻って行きますが、相手が自分の呪詛に掛からない様にしていたら、返してもムダですから、もうひとつ呪詛を掛けてから返す方法があります。
『呪詛返し』は、呪詛を掛けた相手に対する結果を本人に返します。
(一掃返しの場合はそれに返した相手の呪詛にもうひとつ別な呪詛が加わります。)
もし、本人が生きておらず存在しなければ、その呪詛は子に返り、子がいなければその土地へ返り、呪詛返しからは逃れられません。
土地へ返って呪われた土地となった場合、その土地の呪いは、七代先まで続くとされています。
昔から『人を呪わば、穴二つ』つまり相手を墓穴へ落とす(呪詛で呪殺する)なら自身も墓穴に入る(自身も死に到る)覚悟が必要であるという意味の事がよく言われる様に、呪詛は呪う相手ばかりか、自分自身にも影響が返ってきますから、それに備えた下準備を必要とします。
自身の穢れを利用する呪詛というものもありますが、基本的には自身に呪詛が及ばない様、自身と呪詛の儀式を行う場の浄化をする必要があります。
だからこそ神聖な儀式であっても呪詛の儀式であっても儀式を行う時には必ず「浄化」が必須となる訳です。
呪詛は自身にも影響を及ぼしますから、そこに付け入り、呪詛を掛けた相手に掛けた呪詛を返してしまう呪法が“呪詛返し”なのです。
呪詛返しは解呪と違い、掛けられている呪詛をそのまま返しますから、呪詛がどんな呪詛であるのかを把握し、確実に返さなければ、呪詛に掛かっている者ばかりか、返そうとした術者自身にまで呪詛に掛かる危険性があります。
呪詛返しの術の一つに『一掃返し』と呼ばれる術があります。 これは、一呪詛を掛けてくれば二呪詛にして相手に返し、二呪詛でくれば三呪詛にして返すという術です。
この呪法の術式は、一つの呪詛を掛けてくれば、それを解呪して必ず一つを加えて打ち返すのですから、数多くの呪詛を知らなければ負けてしまいます。
この様に、呪詛を祓うには呪詛の知識が必要なので、呪術師は、呪詛をしなくても呪詛に関する知識をたくさん持っているのです。