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- 太古の昔から言はあった

初めに言があった(新約聖書ヨハネ1:1)

言がわたしたちひとり一人に与えられたとき、
言は言葉として
じつに多様な言の葉を生いしげらせた
言が幹とするならば
わたしがいま使っているのは、小さな小さな一枚の葉っぱなんだろう

新緑の葉もあるだろう
赤茶けた、夏の陽に乾いた葉もあるだろう
紅色に色気づいた晩秋の枯れ葉もあるだろう

その一枚一枚に魂がありいのちがある
葉の一枚一枚を陽の光にかざしてみると、その葉脈が
まるで、わたしたちひとりひとりの血管の走る様だ
言葉も同じなんだろう

一枚として同じ葉脈はなく、
各々の民族に、一つとして同じ言葉は与えられていない

日本語、ケセン語、アイヌ語、ギリヤーク語、ウチナーグチ…
そして、数えきれない人々の言葉がある

その多様性を多様性のままにつなぎとめているのは、
言うなれば"言霊"(ことだま)とでも言おうか
聖書によれば、"聖霊"と呼ばれる未知の輝き すべての相違を肯定に変える
神はことだま(聖霊)をわたしたちにお与えくださり、
"多様であること" "違うということ"の豊かさを、わたし自身に
教えてくれているのだと、わたしは思う
- いえす『ことば 言葉』
8月3日 病床にて。
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- もがれたひとりの片腕が負った悔恨と無念とは
のこされた十一人の両腕が負いきれなかった罰と恥よりも
けっして軽いものではなかったと思わないか

十一人が負いきれなかった重量と
のこりのひとりが否応なく背負わされた重量とは
ともどもに食卓をかこんだあの夜の深さにおいて
均衡したのではなかったか

あの醒めた金曜の夕刻
十一人が見つめたありのままの闇のやるせなさと
のこりのひとりがひめやかに絶った自らの血統
その土地の生臭い記憶とは
ひとしくもうひとりの孤独なおとこの両肩によって
あがなわれたのではなかったか

いまここに存在する己のいのちの重量
それが無条件のように
無視されたひとりの片腕にかかった重量を越えると
暗黙のうちに信じきってきたわたしの生涯

それさえも
ひとしくあの貧しいひとりのおとこによって
あるいは
もっともくらい闇をかかえた
もうひとりの両腕いっぱいの悔悟
それ自身によって
あがなわれたのではなかったか
- いえす『J(注1)』
9月7日 病床にて。
注1):アルファベットのこの一文字は、イエス・キリストの名前の最初の一文字であると同時に、彼を裏切ったイスカリオテのユダ、彼の名前の最初の一文字でもあることを暗示しています。
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- なにもないということはたぶん、しあわせなことなんだろうな
退屈なときはたぶん、このときが
なんでもできる豊かなときであったことを
いつか時間の流れとともに、わかっていくんだろうな

気分が鬱屈なときはたぶん、
このときが静かな瞑想のときであったことを、
いつか時間の向こう側に見いだすんだろうな

もし言葉を失ったとき、そのときはたぶん
まるでワインが熟成していくのを待つように、
言葉が復権し自由で希望に満ちた言葉を話す日を
ひたすらじっと待つことなんだろうな
- いえす『なにもないということ』
8月4日 閉鎖病棟にて。